女は濡れたような目で、源をじいと見上げた。そうしてただ黙って頷いた。
「旅はもういいのか」
「いいんです、そんなものはもう」
「なら、ずっと傍にいてくれ。おれと一緒に、これからもこうして生きてくれ」
ふたりは夫婦になった。そうしてまた春と夏と秋と冬を過ごした。煎餅布団で起き、共に飯を食い、薄い布団で眠った。冬の寒い夜などは共に寝ることもあった。寄り添って、手を繋いで、ただそれだけだった。ふたり分の布団のなかはぬくかった。女の冷たい手に、自分の体温が、じんわりと移っていくのが、源はそれだけでたまらなく満ちていた。広い琵琶湖のような気分だった。ゆうゆうと静かに満ちている。その上に舟を浮かべているような心持ちだ。ひとつの舟に、女とふたりで。いっそ琵琶湖に抱かれるようになりながら。――そんな風景を寝入り端にみて、源はほくそえんだ。顔が自然と緩んで、ふっふっと息がくちびるから漏れ出した。ふくふくと笑う源に、女も同じように笑った。繋ぐ指を深めた。源はしあわせだった。
源は町に出た。時折、魚を売りに町へ出る。源の釣ってきた魚は上物で美味いと評判になっていたから、今日もすっかり売れた。いつもなら、菜料をいくつか買った後そのまま家へと戻るのだが、源は町の奥へと足を速めた。立派な店構えの戸を叩く。
「着物がほしいんだ。女物の」
女はいつもつましいものばかり着ている。ちっとも着飾らず、ねだりもしない。それが源はずっといじらしくていた。
「女房に着物の一つも買ってやらないなんて、ひどい亭主じゃないか」
それならとびきりのがある、と店主は奥からそれを大事そうに抱えてきた。それは錦が織り込まれた非常に美しい着物だった。ひかりの加減で煌めく。――ああこれだ。女にきっと似合うに違いない。源は思った。懐にひっそりと忍ばせてきたものを開く。この日のために、こっそりと溜めてきたのだ。着物はちょうどの値段で買えた。