小説

『カムパネルラ』ろ~~くん(『銀河鉄道の夜』)

 私の幼少期は、世間一般からすると不幸らしかった。母親は父親と仲が悪く、そのストレスの捌け口はいつだって子どもである私だった。母親の機嫌は、例えばミルクを床に溢してしまったり、母親より早く寝入ってしまったりといったことで魔法のように切り替わる。ついさっきまでニコニコ笑い合っていた母親は突如として般若のような顔になり、私をゴム毬か何かのように蹴った後、ベランダに出すのだ。
 けれどもそんな中でも、私は自分のことを特に不幸とは思っていなかった。私の隣には、母親やあまり帰ってこない父親よりも遥かにきちんと私をみてくれる存在がいたからだ。
 空を見上げると、いつだって「彼」はそこに居た。「彼」は(母親がまだ穏やかだった頃に読んでくれた本の登場人物から、勝手にカムパネルラと名付けた)幼い時から私のそばにいた。彼の背丈は私よりうんと高く、見上げないと顔が分からないほどだったが、とても 綺麗な顔立ちをしていた。特に彼の目が私は幼いながら大好きだった。彼の瞳は沢山の星空を閉じ込めたように一点の曇りもなく、キラキラしていた。母親や時折帰ってくる父親は、私に寄り添う彼を認識していないようだった。彼は、私にしか見えないふしぎな存在だった。カムパネルラのことを母親に話すと母親はなんだか機嫌が悪くなるため、私は特に彼のことを周囲に話すことはなく、日々を過ごしていた。
 カムパネルラは午前中には決して現れず、晴れた日の夜にだけ現れ、機嫌の悪い母親に閉口する私を見て、頭を撫でたり慰めたりしてくれていた。どんなに母親にぶたれても、お仕置きとして外に出されても、私には確かに「彼」という居場所があったから、きっと、幸福だった。天気の悪い夜だけは彼に会えず、少し寂しい思いをしたけれど、晴れた日の夜になると彼はまたひょっこりと、現れてくれるのだった。
 今日もまた現れた彼は、頬に傷を作った私を心配そうに見つめた。彼に「大丈夫だよ」と返すと、返事変わりの瞬きで返してくれた。
 あざだらけのお腹を軽くさすりながら私は星を見上げ、「トゥインクル、トゥインクル、リトルスター」と、母親が昔、機嫌のいい時に歌ってくれた歌を歌う。もちろん、家にいる母親の神経を逆撫でしないような小さな声で。
「カムパネルラも、この歌好き?」
彼は優しく頷いてくれて、しばらく私はずっと、小声で歌を繰り返した。
 歌い終わってから、互いに無言で星を眺めていると、急に母親がわあわあと子どものように泣きながら掃き出し窓を開け、何度も謝りながら私を抱きしめた。母自身の匂いに混じって香る、タバコと、アルコール、それから化粧品の匂いを、今でも忘れることができない。母の頭を撫でながらふと隣をみると、彼は先ほどと変わらぬ穏やかな顔で私を見つめて、私が部屋に入れてもらえた明け方にはいつのまにか消えていたのだった。
あの日ベランダに放り出された日か数年ほど経ち、私が小学校高学年になった頃に両親が離婚した。ある朝目を覚ますと母親がどこにもおらず、家で一人菓子パン(母親が残していったらしい。値引シールが貼ってあったことをぼんやりと覚えている)を食べているところに父親がやってきて、母親の居場所をしきりに尋ねた。
 何も知らない、というと父親は「そうか」とだけ言い、ため息を吐いた。

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