小説

『みちびき地蔵』小柳優斗(「みちびき地蔵」(『みちのくの民話 日本の民話 別1』収録)』(宮城県気仙沼大島))


 翌日は大潮の日だった。月の中で、一番潮が引く。私は父にねだって、浜辺に出かけた。母は昨日のことがあるからと尻込みしていたが、半ば強引に父に連れてこられていた。
 浜には、村中の人々が集まっていた。今年で九十九となる村一番の年寄り婆さんも遊びに来ていた。
 この日はいつになく遠くまで潮が引いていて、満潮の時期を迎えても波が返ってくる気配はなかった。その分だけ海藻が多く採れることを誰もが喜んでいた。空は黄昏間近で黄色く染まり、気早な星々が、天のあちらこちらで瞬いている。
 賑やかな浜辺で、誰かがすさまじい叫び声をあげた。
「あ、ああァ……アアアーッ!」
 皆びっくりして、いっせいに海の方を見た。そして全員、同じように叫んだ。
 その目に飛び込んできたのは、空にまで届く巨大な波の壁――。
ーー津波だァッ。
 浜辺にいた者たちは全員、脱兎のごとく駆け出した。恐怖を顔に刻み付け、すさまじい叫び声をあげ、互いに体をぶつけあって。足がすくんで動けない者に引っかかって転倒する者。誰かが投げ捨てた海藻に足を取られて転ぶ者。突き飛ばされる子供。我が子を探して、浜辺を離れられない親……
 地獄の只中に、私は突っ立っていた。
 何が何だかわからなかった。恐ろしい波の壁が、恐ろしい勢いで迫ってくるのは見えた。が、この私に何ができよう。私の背丈では逃げ惑う大人たちの足しか見えないのだ。そうしている前に、死の壁は轟轟と唸り声をあげながら近づき、飛沫が顔にかかるまでになった。
 と、不意に体が持ち上がって、風に乗ったかの如く飛んだ。父が私を抱え、母の手を引いて、韋駄天のごとく疾駆しているのだった。
 村で一番高い山の中腹に走りついた。私たち三人は津波の魔の手から逃れ、体を寄せ合っていた。津波は村の半分ほどを掻っ攫っていった。母は、耳を塞いで崩れ落ちた。
 ーー本当だった、本当だったんだ……。母は泣きながら、繰り返し呟いた。四歳の私でも、その言葉の意味は理解できた。昨日のみちびき地蔵――あれは、この津波で亡くなる人達の魂だったのだ。
 日が落ちても、水が唸る声は絶え間なく続いた。その晩、私たちは山の中で眠った。

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