小説

『白蛇の母』宮沢早紀(『井の頭 白蛇伝説(東京都三鷹市)』)

 十一月十九日
 昼過ぎに買い物から帰ってきたら、学校帰りの小学生たちが「白い蛇がいた! 白い蛇!」と大騒ぎしながら家の前を通り過ぎました。
 すぐさま二階で在宅勤務をしていたお父さんを呼び、買い物袋を玄関に置いたまま池へと走りました。
 会いたい。私たちと一緒に暮らしていた時の姿でなくていいから。元気な姿を一目でいいから見たい。心の中でそう叫びながら池まで行きました。
 大騒ぎする小学生やカメラを向ける人たちをかき分けて池の淵まで行くと、透き通る池の中に美しく輝くあなたを見つけました。やっと会えた、お父さんはそうつぶやくと地面に膝をつきました。安心したのでしょう。
 くねくねと楽しそうに動くあなたを見ていたら、小さい頃にころころ笑いながら原っぱを駆けまわっていたのを思い出しました。
 姿を見せてくれてありがとう。あなたが元気そうで、母はうれしいです。

 十一月二十日
 昨日のあなたのことがテレビ番組で話題にされていました。いろんな人があなたの写真を撮っていたようで、SNSに上げられているのが紹介されていました。毎月届くタウン紙にも写真が載るかしら。
 結実、ずいぶんと元気に泳いでいたのね。しばらくはおとなしくしていた方がいいかもしれません。たくさんの人が池に来たら落ち着いて暮らせなくなってしまうでしょう。あなたに悪さをする人も出てくるかもしれません。
 くれぐれも気をつけて。しばらくは茂みに隠れておきなさいね。

「おいおい、言っていることが変わってるじゃないか。会いたい、姿を見せてって言ってたのに、出てくるなって」
 オールを動かす手を止めて昌則が笑う。
「だって……しょうがないじゃない、状況が変わったんだもの」
 柊子は開いたままの大学ノートを胸に当てて膨れた。ゆっくりと池の中央へと流されていくボートを両岸からせり出した木々が見下ろしている。
 桜が咲く頃にはボートでうめつくされる池も、十一月も終わりの平日、それも朝からボートに乗ろうと思い立つ人はいないようで、広々とした池には一隻だけがぽつんと浮かんでいた。船着場には出番のないスワンボートの群れが所在なげに揺れている。
「まったく親ってのは勝手だよなぁ」
 昌則は青く澄んだ空に向かって伸びをした。昌則の言葉に柊子はふふっと小さく笑うと、小学生が教科書を音読する時のようにノートを顔の前に掲げた。
「十一月二十五日。親というのは勝手な生きもので、すぐ矛盾したことを言ってしまいますね。勝手に喜んで、勝手に心配して……そういえばあなたが赤ん坊の頃は早く寝かしつけをしなくても自分で寝てくれるようになったらいいのにって思っていたけれど、少し大きくなって自我が出てきてたら出てきたで、赤ん坊に戻って大人しく抱っこされてくれたらいいのにって思ったこともありました。こんな勝手な母を許してくださいね。母はいつも、これからも、ただただあなたのことを思っています」
「なんだ、書いていたのか」
「うん、書いてた」
 柊子がぱたんとノートを閉じると、二人は目を見合わせて笑った。ボートはゆらゆらと揺れながら池の奥へとゆっくりと流れていく。
 晩秋にしては暖かな日差しが池を照らし、池を取り囲む常緑樹の木々が水面に映った。その緑の上を、一匹の白蛇が悠々と泳いでいった。

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