小説

『走れ、お前はメロスではない』松ケ迫美貴(『走れメロス』)

『お前の兄の、一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。お前も、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。お前に言いたいのは、それだけだ。お前の兄は、たぶん偉い男なのだから、お前もその誇りを持っていろ』
 メロスはあの日、自分が妹に言い残した言葉を覚えていた。その言葉通り、実際にメロスは偉い男になった。きっと妹も誇りを感じているはずだ。
しかし、メロスは思った。私は今、自分の生き方を疑っているのではないか。自分の人生に嘘をついているのではないか。
「ああっ! くそう!」
 メロスは口惜しく、地団駄を踏んだ。何も考えたくなかった。

 ものの見事な晴天であった。
「いのちが大事だったら、おくれて来い。お前の心は、わかっているぞ」
 王が言った。広場に作られた祭壇の上で、民衆を見渡しながら言い放った。
 セリヌンティウスはその傍らで十字の板に張り付けられている。足は地についており、腕の縄は程よく緩めてあった。始まる前から、メロスはこの茶番にうんざりしていた。
「さあ、行けぇっ」王が、高らかに声を上げた。
「メロス! お前を信じているぞ!」セリヌンティウスが叫んだ。
 集まった沢山の群衆を見渡すと、ひと際煌びやかな服に身を包んだ妹の姿が見えた。メロスはもう何も見まいと、目をつぶって花道を走った。しかし、割れんばかり歓声が絶えず耳をつんざいていた。
 メロスはつらかった。灼熱の太陽の下、野を越え山越え十里を走り、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒したあの時よりも、ずっとずっとつらかった。たった二里もないこの道を往復することが、苦しくて仕方がなかった。それでも、メロスは走った。そうする以外に、どうすれば良いのか、メロスには分からなかった。意図も容易く折り返し地点に就いた。また、あの過酷な花道を走り、広場まで戻らねばならない。
 愚かな男、メロスよ。ただの見世物に成り下がり、なんと情けない事か。お前は何の為に走っている。誰の為に走っている。愛と信実の血液だけで動いていたお前の真紅の心臓は、今や濁り切っていることだろう。お前が走った先に待っているのは誰だ? 友か? 王か? 妹か? それとも群衆の為に走っているのか、勇者メロスよ。
 くそ、くそ、と意味もなく悪態を吐きながらメロスは走った。メロスは自分が許せなかった。あの日の友情を、正義を汚しているのは紛れもない自分自身だった。
 ふと群衆に目をやると、その中にフィロストラトスを見つけた。彼はいつものように侮蔑を交えた、冷たい視線をメロスに送っていた。しかし、メロスにはそれが有難かった。いつかの清流のように、その視線はメロスの目を覚まさせた。
 ここに、私を待っている者はいない。皆、勇者メロスを待っているのだ。信じられているのは、私ではない。あの日のメロスだ。私は、この信頼に報いる必要など全くないのだ。
 メロスは、歩みを止めた。

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