小説

『走れ、お前はメロスではない』松ケ迫美貴(『走れメロス』)

 メロスは、吐き捨てるように言った。しかし、王には聞こえていなかったのか、咎められることはなかった。王が言うには、セリヌンティウスは既に喜んで快諾したと言う。メロスは首を縦に振らなかったが、強く否定もせぬまま城を出た。メロスには分からなかった。王は、変わった。民の為に考え、動く王になった。きっと、今回の祭も民の為に催したものに違いない。しかし、メロスには甚だ意味のないことに思えて仕方がなかったのであった。

 メロスは頭を抱えながら屋敷に帰った。思いもよらぬ王の提案のせいで、ひどく疲れていた。
 よろめいて歩いて来る兄の姿を見つけて妹は「まあ!」と声をあげた。今日からこの屋敷に妹夫婦も住むことになっていた。 部屋はいくらでもあった。妹は、うるさく兄に質問を浴びせた。家具を新調しても良いか、床に綺麗な布を敷いても良いか。内気な性格は、ここ一年で随分と変わってしまったものだ。
「なんでもいい」メロスは適当にあしらった。「今日は来たばかりだろう。少しゆっくりしたらどうだ。明日にでも、うまい酒でも飲んでお祝いをしよう。家のことは、それから考えたらいい」
 妹は頬を膨らませた。不満げに口を尖らせながら、そのまま出て行ってしまった。婿は揉み手しながら、その後を追っていった。律気で強情だった青年は、嫁の機嫌を取るだけの男になっていた。
 メロスは、女房を娶らなかった。ここ一年、メロスに声を掛けてくる女は山ほどいたが、メロスには全く魅力的に思えなかった。あの日、メロスに緋のマントを捧げてくれた少女はいつの間にか街を出ていた。メロスは、たまにあの少女のことを思い出した。
 翌朝、メロスは約束通りご馳走を買いに行った。うまい酒も買った。故郷の村でよく食べていた羊肉を買おうとしたら、妹は高級な馬肉が良いとねだった。好きだった山草はもう好みではないと言った。メロスが食した事もないような、物珍しい色とりどりの果物も買った。婿はにこにこと笑いながら、黙って後ろをついてくるだけだった。
 じっとりと、肌に湿気が纏わりつくような夜だった。しかし、広いメロスの屋敷ではあまり気にならない。妹も婿も、楽しそうにご馳走を囲んでいた。前の狭い家の中だったら、むんむんと蒸し暑い熱気がこもっていただろう。メロスは、退屈そうに盃を口元に添えて、あの日の祝宴を思い出していた。あの佳い人たちは、今頃何をしているのだろう。きっともう生涯あのように楽しい日々を過ごすことはない。今は、自分の人生でありながら、自分のものでは無い。そんな気がした。申し分のない生活をしているはずなのに、心はままならぬ事であるばかりである。
 メロスは二人に何も告げずに席を立った。二人はメロスのことなど気にも留めていないようだった。楽しげな宴は続く。メロスは寝床で横になった。しかしいつまでたっても眠気は来なかった。

 祭りは、明日に迫っていた。メロスが返事をしないうちに準備は進み、街の真ん中にはメロスが走る花道まで用意されていた。メロスが出発する場所から、セリヌンティウスの待つ刑場まで二里も離れていない。村人もどこか浮足立っており、もはやただの余興であることは一目瞭然であった。
 深夜、メロスは屋敷を抜け出して一人で散歩をしていた。初夏、満天の星である。しかし、メロスの心は曇り切っていた。
 明日、私は何の為に走るのだ。殺される為ではない。身代わりの友を救う為ではない。王の奸佞 (かんねい)邪智を打ち破る為でもない。私は何の為に走るのだ。何故走らなければならぬ。名誉とはなんだ。友とはなんだ。平和とはなんだ。
時が経ち、全てが分からなくなっていた。

1 2 3 4