小説

『走れ、お前はメロスではない』松ケ迫美貴(『走れメロス』)

 メロスは困惑した。かの邪知暴虐の王の一件以来、メロスの生活は一転していた。メロスは、元は村の牧人であった。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども、今は違う。シラクスの市で、王が拵えた立派な屋敷に住んでいる。羊群の番はやめた。ただ、何日かに一度、王城に顔を出し王と話をした。また、たまにメロスに逢いたいと国境を超えて遥々面会にくる異国の要人と顔を合わせ、挨拶をした。仕事らしい仕事と言えばそれぐらいだった。それだけで何故か彼らは有難がり、メロスは一生使い切れないような金品を褒美として受け取った。
 竹馬の友、セリヌンティウスもまた石工をやめていた。朝から酒を飲んでは夜に酔いつぶれる生活を繰り返し、若き日の隆々とした筋肉は失われ、醜く膨らんだ腹は今にも破裂しそうになっていた。街で見かければ二、三言葉を交わすが、酒が回っているせいで、真面な会話が出来た試しがない。彼の元弟子であるフィロストラトスは、街中ですれ違うたびいつもメロスに恨めしげな視線を投げてくる。
 この一年で、全てが変わってしまった。
 メロスは、単純な男であった。最初は心を入れ替えた王を、活気ついた民衆を、賑やかになったこの街を、全て単純に喜んでいた。王が友人になりたいと言ったときも、快くそれを引き受けた。この街に住み、周りの者たちから英雄扱いされることも、照れ臭かったが満更でもなく思っていた。しかし、何だこの有様は。メロスは言い様のない胸の騒めきを覚えていた。何かが決定的に間違っている。しかし、人々は皆幸せそうだった。あの暴君ディオニスと言われた男ですら、今では民を思いやり、良き政治を行っている。王の眉間に刻み込まれていた深い皺も、今は見る影もない程薄れているというのに、何かが釈然としなかった。全てうまくいっているのに、何故か微塵も正しさを感じないことに、メロスは戸惑っていた。

「メロスよ。今日はお前に良い知らせがある」そう王が言った。
「ほう、何でしょうか」
「お前とセリヌンティウスの祭を催そうと思うのだ。美しい友情を讃えるための祭だ。なに、そんなに難しいことはしないさ。お前はちょっと街から離れた場所から、刑場までただ走れば良い。そして、あの日のように磔にかかったセリヌンティウスを助け、民衆の前で熱く抱擁する姿を見せてくれ」
 王は、まるで褒美を渡す時のような、穏やかな口調で言った。何なら、その口元には優しげな笑みが浮かんですらいた。
「なんだと。あの日の我々を、見世物にするというおつもりか!」
 メロスは驚いて声を荒げた。しかし、王は落ち着いて続ける。
「そうではない、メロス。お前達のおかげで、わしの心は変わったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかったと、お前たちが教えてくれたのだ。わしは感謝している。民衆もきっとそうだろう。あの日の感動をまた思い起こし、真心に感謝する日にしたいのだ」
 メロスは困惑した。王の言うことが分からぬ。あの日を再現することが、どうして友情を讃えることになろうか。あれは、様々な葛藤があり、それを乗り越えたことに意味があるのではないのか。二人が真剣に互いの命を懸けたことに意味があるのではないのか。ただ見せ掛けの救出劇をして、そんな祭に何の意味がある?
「おどろいた。国王は乱心か。」

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