小説

『あきらめよう』洗い熊Q(『諦めている子供たち』)

 彼女はマスク上にある瞳をぱっと大きく見開いてくれたが、直ぐに首を傾げていた。
 聞こえづらかったか。自分もマスク越しだし。それで失礼かと思いながらも付けていたマスクをずらし、口元を出してまた声を掛けた。

「びっくりさせてすいません、動画を観たんですよ。それで感想だけでも伝えようかと思って」

 それを言うと彼女の目は嬉しそうに細め、拍手する様に手を合わせて喜んだ仕草をした。だが直ぐ、ちょっと待ってと言いたげに片手をかざし傍らを探り何かを取り出す。
 手に取ったのはホワイトボード。マジックも持ち出し彼女はボードに文字を書き始めた。書いたものを私に見せ向ける。

 ――ありがとうございます! みてくれた上に感想まで言ってくれてありがたいです!

 書き殴ったように見えて、その黒い文字は綺麗だった。最初思ったのは気遣いでホワイトボードで筆談にしたのかと。飛沫防止で声を出さない為に。
 彼女はまた少し待っての合図をしてボートに文字を書き足していた。

 ――暗くても見えます? きたない字ですいません。

「そんな事はないですよ、見えます。字はとても綺麗ですし」

 そう私が言うと彼女は親指を立てグットと表現すると、その笑顔を目元で現してくれた。
 その仕草で思った。喋らないではなく彼女は喋れないのではと。

「曲も演奏も良かったけど動画で流れたあの詩、とても心打つものを感じましたよ。何か特別な理由があって、あんな演出を……」

 私が喋り始めると彼女は覗き込む様にして、じっと目を見つめながら聞いてくれている。
 いや違う――彼女が見つめるのは私の瞳ではない。
 視線はずっと、マスクを下ろして喋る私の口元を凝視しているのだった。耳を傾ける様子もなく。
 それでようやく気付けた。
 彼女は喋れないだけでなく、耳も聞こえない方だったんだと。
 気づき驚いて沈黙してしまった私が思ったのは。
 彼女はどれだけの事をあきらめて来て、今日まで演奏を続けてきたんだろうと言う事だ。

1 2 3 4 5