そう言ってちょこんと洋一に頭を下げた。
「ううん。おやすみ。また」
洋一がそう言うと、有紀は洋一の手を引っ張って歩き出した。
「こっち。ここから、バスで駅まで帰れます。もうすぐ来ますよ、バス」
有紀はバス停まで洋一を引っ張って行き、自分の財布から小さい紙を出した。
「これ、使ってください」
有紀が出したのはバスの回数券だった。送って帰って回数券をもらうのでは、と洋一が逡巡している間に駅へ向かうバスが来た。有紀は洋一の手を取って重ね、回数券を握らせてバスに乗せた。
「おやすみなさい」有紀は、バスに乗った洋一に手を振った。洋一も振り向いて、
「ありがとう」手を振った。
バスに乗ってから、洋一は乗客に見られているようで恥ずかしかった。有紀を家に送り届けて颯爽と去るはずが、逆に回数券の施しを受けて見送られることになるとは思わなかった。
走り出したバスの中から、バス停の所からまだ手を振ってくれている有紀の姿が見えた。
今夜の有紀の、行いの一つ一つがずっと思い出されて洋一の眠りを大いに妨げた。
洋一は学校の帰り、津田鈴美に後ろから声を掛けられた。帰り道をそのまま一緒に歩き出した。
鈴美は1年後輩、有紀と同じ中学だった。小柄でかわいらしい物腰で、大きく黒目の目立つ瞳がポイントになっている女の子だった。彼女は洋一の同級生がいる部活にいて、そのつてで顔を見知っていたが、これまであまり会話らしいものもしたことが無かった。
普段は口数が少ないと感じていた鈴美は、その日はよくしゃべった。それは、洋一が中学時代の話で水を向けたのでそれに反応して冗舌になったようだ。最初、洋一は有紀がアルバイト先にいることを話さないでいたが、途中で「高島有紀って子を知っている?」と聞くと、鈴美は立ち止まり一段高い声で、
「あー!バイ菌!」
そう叫んだ。
「バイ菌?」
「そう。みんなでバイ菌て呼んでた」
「なんで?!」
鈴美は答えなかった。そのように有紀を呼んでいた理由にだけ口を閉ざし、話題を変えた。
洋一の頭の中で有紀とバイ菌ということばはうまくなじまなかった。それに、「人をバイ菌と呼んでおきながら、その理由は言えないのか」「人をバイ菌と呼べる、その心はどこからくるのだ」そんなことも頭に浮かんだ。洋一の胸の奥で、疑問や怒りのようなものが入り交じった。頭の中で「バイ菌」ということばが妙な想像を掻き立てた。「聞かなければよかった」そう思った。
それが15年前のことだった。