小説

『隣の惑星』夏川冬人(『静かな湖畔』)

 泉は遠く向こう側まで見渡している。眼前には低い山の裾野が広がり、泉の際には黄色い花が並んで咲いていた。水面に向かい時折鳥が飛来しては羽を洗い、水の中では魚が草の根をつついていた。泉の周りは芝生が続き、芝生と泉の切れ目に沿って一軒の家が建っている。その家には以前より家主だけが住んでいた。家主は毎朝泉で体を洗い、夜は泉の音で就寝し、泉と寝食を共にしていた。家主の家は老朽が進み手入れも行き届いていない。補修する様もなく日常を過ごし、暮らしを変えずに生活をしていた。泉の周りに家主以外の家はなく、聞こえてくる声もない。日常に静けさを感じ、静寂も感じてはいたが、涙を流すほどではなかった。泉は清らかな水の湧出を続け、月日は変わらず流れていた。日常は変わらず続いていた。

 家主の日課は木を削ることだった。毎日山に向かい、裾野の林に立つ大きな楓の木を削っては持ち帰る。帰路の途中の枝葉も残さず拾い集めるほどだった。楓の在りかは林を進んだ先の平たい場所で、一面に生い茂っていた。目に留まる楓には家主の削り跡が見え隠れしている。家主が削りきるには余りある林であった。作業の合間に食事を摂っては、泉の近くでよく昼寝をしていた。起きるや否や作業を続け、日没まで没頭していた。集められた木々は家の隅に置かれ高く積みあがっていた。随分と古くに積み上げられた木もあるが、使われる様子はない。日を追うごとに木々は増え、高さを増した木材達はゆらゆらと揺れている。雨風が吹いても木材が倒れることはなく、均衡を保ちながらそこに立っていた。家主は今日も作業を続け、山から木々が運ばれていく。山に住む鳥たちに時折枝葉をつつかれながらも、気にも留めずに作業を続けた。家主が泉と共に暮らし始めてから、もう随分と時が経っていた。時折揺られる木々を前に退屈を感じていたが、眼前の水流を見るとそれも忘れてしまう。家主を包む泉の流れは今日も変わることがなかった。

 ある日の午後、裾野から二頭の鹿が下りてきた。落ち葉を踏み鳴らし、互いに追いかけあいながら泉に向かっていた。時折家主によって削られた木に背をこすりつけては、緩やかな足取りで林を抜けていく。家主に削られ、鹿にこすられた木々たちは今にも倒れそうな様子であった。泉に降り立つと鹿たちは交互に水を飲み始めた。一頭が頭を下げるともう一頭が周りを見渡す。十分に飲みきるまでそれは繰り返されていた。飛来した鳥に驚き飛び上がることもあったが、喉を潤すとお互いに頭を上げ、泉の際を歩き始める。進む途中に家主の家を見つけると、家主の集めた木材をつつき始めた。均衡を保つ木材の揺れは大きくなり、隙間から枯葉がはらはらと落ちていた。そこへ家主が林から木材を抱えて戻ってきたが、鹿たちを一度見たきりで、木材を積み上げると再び林へ入っていく。鹿たちはしばらく芝生に膝をつき、若草をついばみながら泉の様子を窺っていた。魚たちは鳥の飛来とともに泉の端へ泳ぎだし、水草もつられて踊りだしていた。満腹と退屈を感じた鹿たちは、日暮れとともに我先にと家主を追って林へと帰っていった。互いの帰路ですれ違った家主もまた、家路へと急いでいた。

1 2 3