小説

『箱』平大典(『浦島太郎』)

 岩壁の中にたたずんでいたのは、魔女の館である。
 俺も久しぶりの訪問だ。ここへ来るのは好きじゃない。
 緊張して、ひれがしびれたように感じる。
 エラから空気を何度か吐き出すと、俺は館に入っていった。
「おい、魔女どの、おるかね」
「ふむぅ。珍しい客人だ」
 深海の魔女は、館の奥から姿を現した。巨大なクラゲの姿をしていたが、これはかりそめの姿だ。ある者には、タコにもヒトデにも見えるという。
「用があってきた」
「ヒヒ、だろうな。竜宮城のお偉方がこんな辺鄙な場所にある襤褸屋敷へ来るのは珍しい」
「頼まれごとがあって……」
「お安い御用だ」魔女は、ヒヒヒと笑い声を出した。「何をしたいかは、みなまで言わずとも」
 すべてお見通しか。なんとも不気味なものだ。
「代償は必要か」
 この魔女に願いをすれば、代償を払わされる。昔いたという人魚の一族がいい例だ。人魚の姫君は、人間に恋をして、人間になる代わりに声を奪われた。結局、約束を反故にした挙句、一族郎党が泡になって消えたという。
「ヒヒヒ、あんたは嫌いじゃないよ。代償は必要ない」
 魔女は館の奥へ一度引き下がると、奥から小さな櫛笥を持ってきた。黒地に金で縁取りがしてある。
「これは」
「玉手箱じゃ、お前が憎いものへ、この箱を開けさせえばよい。そのものへ、大いなる災厄が降りかかるであろう。決して自分で開けてはならぬぞ」
「理解した。具体的にはどんな災厄なのだい」
「ヒヒヒ、中には煙が入っておる。海底火山の煙に、人灰を織り交ぜたものである」
「どんな効果かと聞いているのだ」
「一気に老化するのだ。若者を老人へ変える。老人あらば白骨にな」
「ふむ」思わず、ほおが緩む。
「決しておぬしが開けてはならんよ」
「じじぃになりたいなど思ったことはない。……礼を言う」
 俺は、玉手箱を携えて、魔女の館を後にした。

 
 魔女の館へいった次の日のことだった。
 屈辱の日々は、突如として終わりを迎えることとなった。
「えー、みなさんすいません」
 朝早くから、竜宮城のスタッフ全員がホールに呼び出された。壇上でスピーチしているのは、浦島太郎だった。
「実はこのたび……」
 スタッフたちはざわざわする。乙姫様と結婚するのではとつぶやいているものもいる。
 俺は唇を噛んだ。そんなことはあってたまるか。

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