小説

『包帯をほどく女』中村市子(『蜘蛛の糸』)

 家を出る時、父親が声をかけた。蓮見は何も言わず、軽く「怪我をしていない方の手」をあげて応えた。

 国道沿いに少し歩いて実家が見えなくなると、蓮見は首から吊っていた三角巾を外し、包帯をしたままの右腕を振ってジョギングを始めた。潮を含んだ夜の風が顔に心地よく当たった。何も考えたくなかったので港まで5キロの距離を一気に走った。港は真っ暗で人の気配はなく、ただ波の音だけが響いていた。蓮見は桟橋の先に腰をおろし、包帯の巻かれた腕を見つめた。何でこんなことになったんだろう。俺はこの先も、怪我もしてない腕に包帯を巻きつけるように生きていくのだろうか……。

 蓮見は途方もない気持ちになって仰向けに寝転んだ。と、自分を覗き込む顔が視界に入った。環奈だ。蓮見は驚いて起き上がった。
「帰ってたんですか」
「脅かすなよ」
「先輩の目、今日もいい感じに死んでますね」
環奈が自分の言ったことにふふっと笑って、蓮見の隣に腰掛けた。
「どういう意味?」
 環奈は答えなかった。二人は無言のまま、しばらく波の音を聞いていた。蓮見はふと、環奈を見た。暗闇の中で背後から月の光に照らされた顔は眩しく、卒業式の記憶からはかけ離れた大人の女の顔に見えた。
「先輩、昔からゾンビっぽかったです。みんなの憧れなのに、全然、生気がないっていうか」
「初めて言われた」
 ふと蓮見は、昔、老人を助けようとして「化け物」と言われたことを思い出した。
「ゾンビに化け物か……」
 蓮見は呟いて笑った。
「そっか、やっぱり俺ずっと前から死んでて、しかも地獄に落ちてたんだな。だからどこにいても苦しいのか」
 環奈が何か言いたげに蓮見の方を見て、包帯に気づいた。
「怪我したんですか、また」
「……」
 蓮見は無言で立ち上がり、逃げるように歩き出した。環奈も急いで立ち上がり、蓮見の背中に向かって
「先輩一人で地獄に落ちたんじゃないですよね?島のみんなで落としたんですよね?」
 と叫ぶと、立ち止まった蓮見に走り寄った。そして、勝手に蓮見の包帯をほどいて端を握りしめ、歩き出した。
「え、なに」
「私も責任とりますから」
 蓮見の腕からくるくると包帯がほどかれて環奈の方へ伸びていく。環奈は数メートルも行くと夜霧に紛れ見えなくなり、包帯だけが二人を繋げていた。するすると腕から逃げていく包帯の端を蓮見もかろうじて掴むと、包帯がピンと張った。少し引っ張ってみると、引っ張り返される。そこには確かな感触があった。蓮見は闇に向かって伸びている真っ白な包帯を見つめた。この先に待っているのが何なのかは分からないけれど、蓮見にはこの包帯をたどっていくより他に救われる方法はないような気がした。

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