小説

『泡沫のお守り』根岸桜花(『人魚姫』)

「大丈夫、ルグレはきっとこれからもみんなに求められるべき人だもの」
 ディーネの言葉が頭に浮かぶ。そうだ、自分はずっとみんなに必要とされてきた。今更尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。銛を握りしめ、水面を睨む。
「ルグレ。水龍の左目の近くに、一枚だけ色の違う鱗がある。それが逆鱗、水龍の弱点だと祈祷師様は仰っていた。難しいかもしれないが、やれるか?」
「うん……ここでやらなきゃ、島のみんなはこれからも苦しむんだろう」
(――そんな生活は、もうたくさんだ。大丈夫。迷いはもうない)
 水龍が水面から顔を出した。その瞬間、ルグレは渾身の力をふりしぼって銛を投げた。彼の想いが奇跡を呼んだのだろうか。銛は見事に水龍の逆鱗を貫いていた。水龍は耳をつんざくような咆哮をあげたかと思うと、暴れることもなく静かに沈んでいく。
 その沈んでいく瞬間、ほんの一瞬だが、ルグレには水龍が笑っているように見えた。驚いた彼は目を擦り、もう一度水龍を見た。そのころにはもう水龍の顔と身体は泡に包まれ、元の水龍の姿すら見えない。やがて水龍の全身を泡が包み込んだかと思うと、鱗一つ残さず消えていった。
 かくして、島と海にはまた平穏な日常が訪れるようになった。ルグレは、自分に勇気を与えてくれたディーネに礼を言うべく、島中を探し回った。しかし、誰もディーネと言う名の少女の存在を知らず、ディーネの姿も家も、もうどこにも存在していなかった。
 いつしか、ルグレもディーネの存在を忘れてしまったが、彼女から授かったお守りは生涯肌身離さず持っていたそうだ。

 ルグレ、私、本当は君を殺すつもりだった。
 だけど、できなかった。
 だって、君があまりにも、私の初恋の人に似ていたから。
 私の左目を抉った、憎くて愛しいあの人に似ていたから。
 海の魔女が私を人間にしてくれたから、人間のふりをして君と暮らすことも考えた。
 でも、それもできなかった。
 だって、君は一人じゃなかったから。
 君を待っている人がたくさんいたから。
 それに、私はたくさん人間を殺したから。
 初恋の人に会いたいだけの私を邪魔した彼らを殺したから。
 私は人間になりきれなかった。
 醜いバケモノのままだった。
――でも、せめて、水龍の姿でも人間の姿でも君のそばにいられないのならば。
 どうかこれだけは許して。
 私の身体の鱗、ひとかけらだけ君に渡すから。
 ずっと、ずっとずっと永遠に、
――君の傍においてほしいな。

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