小説

『神様になった怠け者』加藤(『三年寝太郎』)

昔、むかし、とある山中に大そうに怠け者がいた。幼い折りから闊達なところ無く、連れだって遊びに行くに人の肩にもたれてうつらうつら歩くような子供で、名を権次といったがまともに呼ぶ者もおらず、皆〝おい〟だの〝やい〟だの呼んでいた。この〝おい〟、〝やい〟が終に、いつの年頃からかほぼ一日中をぐうたら寝てすごすようになり、これといって悪さをするわけではないが、起きて働かないということで村の鼻つまみになった。二親は早くに亡くなり、身の廻りの世話を妹の挺(てい)が看ていた。飯を食うときも半眼で頭をゆらゆらさせながら、ときには挺に食べ物を口に運んでもらいながら、ゆっくりゆっくりと事をした。また寝そべったまま食べたりもし、「骨、とってくれい(魚)」とたまに開く口はそんなものであった。
挺はまだ嫁ぐ年頃というわけではなかったが、なぜだかこの寝てばかりの兄が憎めず好きで、畑仕事やら機織りをしながらその側にいた。仕事終わりに覗う兄の寝顔は赤子のそれとはまた違った安らぎや安堵を挺に与え、そしてそれ以上に何か勇気に近いものを挺に感じさせた。「兄じゃあ、ねえ兄じゃあ…」何も返ってこないことを知りながら、ときをり挺は甘えてこの寝てばかりいる鼻つまみに声をかける。返事なのか偶然なのか、いびきの鼻を権次が二度ほど鳴らす。挺はフッっと笑い、この人は本当に〝寝ている〟のかしら?などと思ったりした。
そうこうしているうちに、ここのところ村が騒がしい。隣りの隣りのその又、又隣りの、その又隣りのその又……隣村の〝三年寝太郎〟の話で持ちきりだった。「聞いたかよう…。」「おぅ 聞いた、聞いた…。」皆さんご存知の『三年寝太郎』。かいつまんでお話させていただくと…まるでこの村の権次よろしく寝てばかりいる輩、その名も寝太郎。本当に三年なのか、〝三〟が〝長ーい間〟を指しているのか、まあ兎に角、野良に精出すわけでもなく、なんの役にも立たず、日がな一日寝てばかり。そんな寝太郎がある日突然起き上がると、誰も気づかなかった村の一大事を寝ていてどう分かったか未然に防ぎ、事を済ますと又何事も無かったようにいつまで続くのかわからない床にもどった、という話。「聞いたかよう。」「おぅ 聞いた、聞いた。」
当然の事ながら、村人の目は今迄〝おい〟だ〝やい〟だと鼻つまみにしていた権次にいっせいに向いた。もしや奴はこの村の『三年寝太郎』や?「おー 権次が床についてからどのくらい経つやぁ?」「あー 忘れっちまうくらいに経つなぁ」。それからたまにではあったが村人から挺に声が掛かるようになった。「おー お挺じょう(嬢)、権次は元気かやぁ」「あー おかげさんでいい塩梅で。寝てばかりおりやすが。」戸惑ったような、嬉しいような、挺はそう返すのだった。ときには菜っ葉のお裾分けがあったりもした。亡くなった二親に心の中で報告をし、このところの様々な話を兄にも聞かすのだが、勿論相変わらず寝てばかりの権次に挺は良い意味の不思議さを覚えた。

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