正直なところ、彼女と話すのが怖かった。テレビの光に耐えられないほど追い詰められ、それでも意識的に子供であろうとする彼女に、どのように声をかければいいのかわからなかったのだ。
退院の日、彼女が祝ってくれたときも、どう返事して良いものか困った。
「そっか、退院するんだ、おめでと」
彼女は努めて無邪気そうにしていたが、うらやむような表情を隠しきれていなかった。わたしはたぶん、出られないから。そんな言葉が聞こえる気すらした。俺は松葉杖をついて前に進み、言った。
「手、出して」「手? こう?」「うん」
おずおずと差し出された彼女の手のひらを眺めた。やせた、小さな手。
「治るよ」
「え?」
「治る。えーと、こう、生命線が長いから、治る」
もちろん手相なんてわからないが、俺なりのお礼のつもりだった。彼女の大きくて色の薄い瞳を見据え、精いっぱい権威ありげな顔をして言ってのけた。
彼女は少しの間あっけにとられていたが、くすくす笑いだした。重病人に似つかわしくない華やかな笑顔だった。
「なんか雑じゃない? でも、元気でたかも」「そっか。よかった」
俺は松葉杖を握りなおし、病室をあとにした。
その彼女がいま、この列車に乗っている。
車窓の風景は、いつのまにか無限に続く病院の廊下に変わっていた。列車は徐々に減速している。じきに次の駅に着くだろう。
「ねえ、ほんとは手相見れないんでしょ? 適当だったし」
「いや、わかるよ。全然わかる」
「ふーん? そうなんだ。ふーん」彼女はいたずらっぽく目を細めた。
列車はブレーキをかけ、戸を開け放した病室の前に停車した。
「嘘つき」
少し寂しそうにつぶやき、彼女は席を立った。「じゃーね」と小さく手をふって、ぱたぱたと列車を降りていった。
彼女が去ってすぐ、車内を見回した。不動岳で死んだ俺がいるなら、あの病室から帰ってきた彼女もいるはずだと思ったからだ。しかしもうひとりの彼女はいなかった。彼女の世界は、あの病室で閉じているのだ。あの狭くて薬品臭い直方体の中で。
ふざけるな。反射的に思った。
俺は駆け出していた。彼女に追いついたところでどうするのか、自分でもわからなかったが、とにかくそうすべき気がしたのだ。生きているってそういうことだ。俺の右手は知っている。俺の心臓は知っている。
閉まりかけた列車のドアに手をかけ、強引にこじ開けた。そのまま列車を飛び降りる。
足音に驚いた彼女が振り向く。俺はよく磨かれた廊下を踏みしめ、病室に向かって叫ぶ。
(嘘じゃない! 絶対治る!)
全力で出したはずの声は、なぜか音にならなかった。声帯が張り詰める。
前に出ようとしたが足が上がらない。息ができない。耳鳴りがする。