大家を見送って部屋に戻ってきたオサム。マダムの向いに座って、シール貼りの作業を黙々と続きをやる。しかし集中ができていないのか、いつにもまして作業が遅くて、マダムが業を煮やして声かけた。
「遅い」
「え?」
「遅すぎる」
「ああ、ごめ」
しかしまだぼんやりとしている。さっきの大家の話が頭に残っているのかもしれない。
「それで、やるの?」
「なにを?」
「トライアウト」
「ああ、聞こえてたんだ」
「家賃、払わなくていいんでしょ」
「うん、うんそう。でもおれはダメ」
「なにが」
「野球」
「シール貼るよりはうまくできそうだけど」
「シールも野球も一緒だよ、センスが大事」
「じゃああたしがトライアウト受けたらいいね」
「あはは、そうかもしんない」
とオサムは笑ったが、マダムの顔は一切笑わなかった。
「ふざけないで。受けないんだったら、家賃どうすんの」
「いいよもう、家賃は」
「よくないよ……」
マダムの珍しく悲痛な声に、重苦しい沈黙が流れる。視線の先では、てい子がベッドの中で寝ていた。てい子はこの世界にはなにも心配することがないみたいに、無防備で幸せそうな顔ですやすや寝ている。それが愛おしくて、自分なんかのとこへ生まれてきたのが可哀そうになる。じゃあ頑張れよ、という話なのだが、これまで何度も何度も頑張れよと自分でも思ってきたけど、ダメだった。野球はあんなに頑張れたのに。どうしてだろう。まさか野球に未練があるのだろうか。いや、未練ではなくて、喪失感か。頭の中に、甲子園の記憶が蘇る。
「まーちゃんね、おれがさ、こうボールを投げるでしょ」
美しいフォームから放たれるボールが、一直線にミットに吸い込まれる。
「バッターがバット振ってね、ばしーんってね、音が鳴ってさ」
審判のストラーイク! という声が響く。
「そら気持ちいいのよ、なんていうかさ、生きてるって感じがして。おれなんか勉強もできなけりゃ、愛嬌もないし、兄弟の中でもあいつはダメだって、でも野球やったらこりゃすげえって、みんなが褒めてくれてさ……」
バットを構えるオサムに向って、相手投手が渾身のストレートを放る。風を切るほどに鋭いオサムのスイングが、ボールの芯を捉える。
「ホームランもねえ、あれはいいなあ。時間が止まるんだよ、まーちゃん知ってる? ホームラン打つとね、時間が止まる」
「知ってるよ」
マダムは続けて言う。
「たくさん見てきたもの」