小説

『さらば行け、マツコ!』ノリ・ケンゾウ(『めくら草紙』太宰治)

『さらば行け、マツコ!』という小説内の出来事のみを世界と解釈したならば。

 我々はおそらく認めなければいけない。我々が想起する『さらば行け、マツコ!』の中で発せられる「さらば行け、マツコ!」は、このオサムの口から発せられるものだと信じ込んでしまっていたが間違っていた。オサムは予定調和を拒んだのであろう。大きな力に動かされる予感を背中に感じながら、慎重に、慎重に、己の行動を選択していったのである。しかし我々もオサムと同様に、動かされるものとして存在しているゆえ、オサムの決死の抵抗も、やがて都合よく回収されてしまうことがよく分かっている。我々はオサムの書く文章の断片を、オサムの目を通じて読む。「なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ生きてあれ!」綴られているこの文章も、自らもやがて物語に回収されると分かっていたがゆえの抵抗と考えれば、その悲痛な思いが伝わるかもしれない。そうして我々はようやく辿りつく。オサムという一人の人間の運命を利用して。オサムがキーボードを叩く音と同時に、画面に立ちあがる文章がそれを告げる。「マツコのことについて、これ以上、書くのは、いやだ。書きたくないのだ……」その目に触れた、オサムの書き連ねた文章に、ようやく〈マツコ〉を見つけた我々は、オサムの書いた文章を隅から隅まで読み、実在する〈マツコ〉の姿かたちを食い入るように見て、今か今かと「さらば行け、マツコ!」を探すだろう。我々からオサムへ、執拗なまでに向けられる眼差し、しかし食い入るように文章を読む行為それ自体は、奇しくもオサムが何より切望していたことでもある。オサムはそれを、不本意に思うかもしれないが。「お隣りのマツ子は、この小説を読み、もはや私の家へ来ないだろう……」「マツコも要らぬ……」隅から隅までオサムの文章を読み込んだ我々は、取って付けたように与えられたこの解答を、少し消化不良を起こしながらも飲み込むだろう。そうして、よもや意味をなさなくなった不在の存在〈マツコ〉へ、我々は失意と憐れみを込めてこんな言葉を投げかけ、この世界から退場するのだ。
「さらば行け、マツコ!」 

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