小説

『祖父、帰る』斉藤高谷(『浦島太郎』)

「そうなんだよ」祖父は卓の上に箱を置く。「まさにこれが玉手箱ってわけだ。開けたらたぶん、俺は一瞬でじじいになる」
「開けないんですか?」
「開けねーよ。俺まだ二十八だぜ? 人生これからだろ」
「でも、六十年経ってますし」順当にいけば八十八の老人、後期高齢者だ。「竜宮城で相当楽しんだんでしょ?」
「俺の中では三日ぐらいしか経ってねーんだよ。乙姫に嵌められたんだ。あの女、こんなに時間が経つなんて全然言わなかったんだぜ。帰りがけにちょこっと言ったぐらいで」
 祖父という大黒柱を突然失った後、家族たちがいかに苦労したかという話は、祖母からイヤというほど聞かされた。親父は中学すらまともに行けず、今の俺の歳では既に一端の漁師になっていたという。自分のやりたいことなど、考える暇はなかっただろう。親父の前には〈やらなければならないこと〉しかなかったに違いない。

 玄関の戸が開く音がする。
「ごめんくださーい」女の声。同級生の佐々木だ。
 こんな時に。俺は小さく舌打ちして、腰を上げる。「ちょっと出てきます。勝手にウロウロしないでくださいね。襖開けたりとか」
「わかってるよ」祖父はうるさそうに手を動かす。
 玄関に行くと果たして、タッパーを手にした佐々木が立っている。彼女は俺の顔を見るなり、口の端を吊り上げる。
「あれ、まだいたんだ」
「うるさいな。これから出て行くとこだよ」
「これ」彼女はタッパーを差し出してくる。「母さんがこないだのお返しにって」
「うん」俺は受け取る。
 佐々木は尚もニヤニヤしている。
「何だよ」
「ガッカリした?」
「はあ?」
「わたしがお弁当つくってきたと思ったでしょ」
「思ってない。途中で腹くだしたくないし」
「意地張るなって」彼女はケラケラ笑う。
「用が済んだら帰れよ」
「なに、誰か来てんの?」三和土に置かれた靴を見て、佐々木は声を潜める。
「ああ、ちょっと」もしかすると佐々木なら信じてくれるかもしれない。だが、話して〈コイツ何言ってんだ頭おかしいんじゃないか〉と笑われでもしたら目も当てられない。結局、説明は断念する。「……親戚」
「ふーん」彼女は納得したのかしていないのか、小首を傾げる。それから「じゃあまあ、家出、頑張って」
 その言い草に俺はムッとする。「俺は本気だからな」
「はいはい」手をヒラヒラさせて、佐々木は出て行く。戸が閉まる。
 なんとなく負けたような悔しさと佐々木のおばさんが作った煮物の入ったタッパーを抱えて居間へ戻ると、祖父の姿がない。さっきまで話していたのは幻なのかと一旦は胸をなで下ろしそうになったものの、空のコップも発泡スチロールの箱も置いてある。そのまま視線を上げていくと、隣の仏間とを隔てる襖が開いていた。そして奥では、祖父が仏壇を向いて立っていた。

1 2 3 4 5