小説

『ネムリヒメノメザメサメザメ』香久山ゆみ(『眠れる森の美女』)

 百年の眠りについた麗しき姫君。
 彼女はなぜ永き眠りについたのか。愛する人を喪ったから。
 夢の中だけでは、彼女は再び愛する人に会うことができた。
 甘美な夢。一面に広がる美しい花畑。豊かな実りある明るい森。穏やかな日差し。やさしい風。老いることも朽ちることもない、永遠の幸福。夢の世界で、彼女は愛する人と永久の生活を約束した。温かなお城のなかで愛しい人たちとともに暮らす、幸せな日々。だから彼女はずっと眠りの世界から戻ってこなかった。
しかし。
 現実の世界では、彼女の目を覚まそうと、数多の人間たちが挑んだ。彼女の両親や知人はもとより、彼らが幽玄の眠りの世界に発った後も。幾千もの男たちが眠れる彼女に対峙した。彼女を得ることで、巨万の富と栄誉が約束されるといわれているから。
 だが、真っ暗な森を越え、茨に閉ざされた城を掻き分け、ようやく姫のもとに辿り着けども、彼女は深い眠りの中におり、目覚めない。とても穏やかな美しい表情で眠っている。彼女は夢の中で、愛する人たちとともに満たされた人生を送っているから。
 そんな彼女の目を覚まそうと、男たちは躍起になる。或は大きな音を鳴らし、或は寝台の周りでごうごうと火を焚き、或は彼女の体に痛みを与え、或は耳元でとうとうと現実を生きることの尊さを説いた。
 彼女は目覚めない。けれども、その度に。永遠に穏やかで幸福だと思われた夢の世界に、苦しみの雨が降る。空が鳴り、嵐が吹き、城には炎が放たれて。あちこちで争いが起き、人々は疑心暗鬼に陥り、国の主たちを責めた。彼女は必死に世界を守ろうとしたけれど、どうにもならなかった。
 なぜ人々は彼女をそっとしておいてやれないのでしょう! 愛する人を失った現実の世界において彼女はどれほど苦しみ身悶えたか。ようやく愛する人に再会して、彼女はやっと幸せを得たのです。誰に迷惑を掛けるでもない、静かな幸福。人々にとっては確かにそれは夢の世界かもしれない。けれど、彼女にとってはそここそが大切な、生きる希望に満ちた世界だったのです。誰がそれを否定することができるというのか。彼女の世界が虚構の世界だと、誰が。人々の生きる三次元の世界よりも、彼女はもっと高次元の世界に生きていたのかもしれない。物質や時間の制約を越えた、精神の世界。それは確かに存在する世界だったのかもしれない。けれど、多くの人にとってそれは理解できぬ世界だったから、人々は彼女を現実世界に引きずり戻そうとした。
 そうして彼女の愛しき世界はぼろぼろに衰退し、ついに彼女は夢の世界から戻ってきた。
 目覚めた姫がぼんやりと顔を上げると、見知らぬ男が嬉しそうに笑顔を向ける。
「おかえり、僕のお姫様!」

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