「もう誰も戻らない」
「やめて」
「あなたは、なにを待つの」
「もうやめて」
未知果は書棚の本を手にとって、片端から次々に薫さんに投げつけた。
薫さんはまっすぐにこちらを見ている。
私は吠える気を失くした。
私は海底に残された犬だ。薫さんの犬なのだ。
薫さんは私の頭に掌をのせた。そこだけがあたたかくなって、その血流が雪解けの涙となって犬の私の目もとを濡らした。
「私は、残された犬は、どうしたらいいの」
「その犬は海底で言葉を紡いだの。ほかの誰にも書くことができないうたをこの世に残した。あなたはきっと私を書いてくれる」
笑顔の薫さんはそれで消えた。
空のバターはすっかり溶けて、絵画のようだった静寂の港町を、傾いた太陽が照らしていた。夕焼けは甘い香りに包まれて、岸壁には朽ちた潜水艦と犬の足あとが残っている。
その足あとは雪の降らない国境まで続いて、その行方は、誰にもわからなくなった。
けふはえびのように悲しい
角(つの)やらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない。
ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない。
生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだじうが悲しいのだ。
潜水艦に残されていたのは一編の詩だ。