卒然として漆黒の不吉な丸い影がいくつかマンションの下に現前した。するとそこに向かって止めどなく、さまざまな人間がマンションの上のあちらこちらから、次から次へと落ちては消えていった。ぽかんと口を開けて彼はそれを見ている。
「ああ」と口を開けたまま、何か悟ったように言った。
彼は歩きだした。どこへ行くと言ったあても何もない。だいたい生まれてからどこへ向かって歩いているんだ？ 死に向かって歩いているんだ。だけど決してそこが終着点ではない。
うじゃうじゃとひとがいる。街に多くの人間が蠢いている。いったいどこからこんなに生まれてきたんだ。彼もその大勢のなかのいちにんとして街をさまよい歩く。
細い血管のような路地裏に雑多な店が軒を連ねる。ところどころ血栓のように店の前にひとがたかり流れを邪魔する。
彼は日頃の癖から、自然に裏へ裏へと足が向く。いかにも怪しげな男が彼の横にそっと近づき小声で言う。
「いい娘がいるけど兄さんどうだい。いい薬もある」
一瞬彼は男を殴り殺したい衝動にかられたが、実際そんなことをする気力はまったくなかった。結局どうでもよかった。
「ありがとう、また今度たのむよ」
彼が言うと、男は彼の肩をぽんと叩いて、何か書いてある紙きれを手渡し、足をとめ後戻りした。彼は紙きれを見ることなくズボンのポケットに無造作にくちゃくちゃと入れた。
彼は路地裏からビルとビルとの谷間を通って繁華な地区へと入った。建ち並ぶビルがいかにも貧弱な彼を上から見くだした。能面をつけたひとびとが歩道を行きかった。彼は現実と非現実の境界をただただ歩いた。朝なのか昼なのか夕なのか夜なのか知れず歩いた。薄暗くぼんやりと赤紫がかった空の下、退屈な街の雑踏を幽霊のように歩いた。
雑踏のなかどこからか、とても物哀しい旋律が聞こえてきた。彼はその旋律が聞こえてくるほうへと、引き寄せられるように歩いた。次第に旋律の奏でられる場所へと近づいた。街の片隅で誰かがバンドネオンを演奏している。
「涼だ」小さな震える声で彼は言った。
そう言えば以前一緒に飲んだときベース奏者の涼が、なぜだか最近バンドネオンにはまってひとり練習している、と話していたことを彼は思い出した。そのときバンドネオンなど興味のない彼は、ふぅんとだけ返して、それきり話は続かなかった。ただ、ロックバンドでベースを弾いている涼が、どうしてまたバンドネオンを？ と少し気にはなった。
彼はちょっと離れたところで、涼の奏でるバンドネオンのメロディに耳を傾けた。確かに涼だ。しかし涼でない。いまそこでバンドネオンを奏でる涼は、どうしても彼の知った涼とは違った。けれど涼だ。それは例のマンションから出てくるのを彼が見た、涼らしき涼らしからぬ男その者であった。
メロディがやんで彼は涼に近づいた。涼も彼に気づいた。
「純也さん」と、小さく涼の口もとが動いた。
そのとき長い黒髪から透き通るほど白い頬を覗かせた女が、ふたりの間を横切った。それは投身してもはや空蟬にいるはずのない女の影とかさなった。
「彼女だ」つぶやいた涼の顔は、絶望的な恐怖とも不安ともまた違った、得体の知れない未知のウイルスに脅かされた青白い相を彼に見せたのだった。
「この前よく似た女が俺の住むアパートの北東に建つ古いマンションの十階の自分の部屋のベランダから真夜中に身を投げた。腹には子供を宿していたそうだ」
彼がまるでを独り言を言うように話すと、涼はガタガタと小刻みに震えだした。
「ひょっとして？… 」
彼の言葉に涼はこくりと頷いた。
車道を走る車のワイパーが動いた。細かな雨が降りだして、空蟬の街に無機質な銀の線を引いた。