小説

『T21』香久山ゆみ(『ノアの箱舟』)

「ねえ、早くはやくー」
 ぐいぐいと腕を引っ張り、バスタブの中に私を押し込めようとする。ぎゅうぎゅう体を捻ってみるものの、何とも仕様がない。
「やっぱり無理だわ」
「ええー」
 窮屈なバスタブから身を起こすと、娘が不服そうに口を尖らせる。やっぱり血筋なのかしら。私も幼い頃、同じように実家の空(から)の浴槽に身を潜めたことを思い出す。
 嵐が来る。
 台風二十一号は、非常に発達して強い勢力を保ったまま本州に上陸、直撃するという予報。午前中の好天が嘘のように、先刻から空は黒く曇り不穏な風が吹き込んでいる。暴風警報で臨時休校になった娘は、ニュース番組で流れる数十年前の同規模台風の映像に慄き、一緒にバスタブの中に隠れようと言う。かわいい娘の頼みだもの、挑戦してはみたものの、我が家の小さなバスタブに大人の体は上手く収まらずましてや湯蓋を閉めることなんてできやしない。
 でも、そうだ。私も幼い頃、同じように母に一緒に隠れようと言ったのだ。けれど母とともに浴槽に隠れることは叶わなくって、私は飼い犬と一緒に浴槽に身を潜めた。湯蓋を閉じた小さな暗闇の中で飼い犬は迷惑そうにしていたけれど、あまりにも私が怯えるものだから大人しく付き合ってくれたのだった。
 けれど今は。残念ながら我が家では動物を飼っていない。なので、娘は一人でバスタブに隠れるほかない。
「大丈夫。ママもちゃんと一緒にお風呂場の中にいるから」
 そう言って娘の隠れたバスタブに蓋をする。私は閉めきった浴室の椅子に腰を下す。びゅうびゅうと次第に強まる風の音が窓の外に聞こえる。わあー、と悲鳴を上げる娘のために、風の音を掻き消すべく、浴室内に防滴スピーカーで音楽を流してやる。ようやく落ち着いた様子の娘の隣で、私はスマートフォンで台風情報を確認する。台風はすでに上陸し、もうそこまで迫っている。雨戸は全部閉めたかしら、ガスは閉めた、表の自転車も全部うちに入れた、幼い頃は及ばなかったそんなことを考える。耳を澄ませばごうごうと激しい風の音と、ガチャガチャと何かが強風に吹き飛ばされて飛んでいく音がする。ああもしもうちの屋根瓦が飛んでよその家の窓を破ればどうしよう、なんて、大人になるにつれ心配事は増える一方だ。ごおお、一段強い風とともに、ぐ、ぐ、と家が揺れる。きゃっ、思わず上げそうになった悲鳴を飲み込む。震度2くらいは揺れたんじゃないか? いつ収まるとも知れぬ暴風に恐怖を感じる。スマホ画面では警報の情報がひっきりなしに更新されている。気象予報士は、台風の中心が通り過ぎたあとの吹き返しの風の方が強烈なので注意せよ、と告げている。これより強い風なんて! 目の前が真っ暗になりそうだ。チカチカと風呂場の蛍光灯が明滅する。電線が吹き煽られているのかもしれない。いつの間にか音楽も鳴り止んでいる。ただこの静かな狭い空間に、ごおごおと外の音だけが反響する。私はぎゅっと縮めた身をバスタブの縁に寄り添えることしかできない。

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