小説

『カラカラ・ネーブルオレンジ』室市雅則(『檸檬』)

「お忘れ物ですよ」
 彼女は私にカラカラ・ネーブルオレンジを差し出した。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 否定などする間も無く、私は受け取った。
「良かったです。美味しそうなオレンジですね」
 彼女が微笑んだ。
「は、はい!カラカラ・ネーブルオレンジって言うんです」
「カラカラ? 変わった名前ですね」
 彼女が口元に手を当てて、再び微笑んだ。
「は、はい!」
「では、失礼します」
「は、はい!」
 一礼をし、少し茶色の入ったポニーテールを揺らして彼女は去った。

 私の手にはカラカラ・ネーブルオレンジが残った。

 私は今、すっかり暗くなった空の下、鴨川河川敷等間隔の中に、一人で混じっている。
 周りは幸福そうなカップルだらけであるが、それもどうも悪くない気がしてきた。
 丸善を爆破しようと思って良かったと思うし、させないで良かったとも思う。
 そう思わなければ、彼女の存在を知ることはなかったし、爆破を実行していれば、どこか罪悪感みたいなものを空想とはいえ感じていただろう。
 彼女が触れたカラカラ・ネーブルオレンジはどこか頼もしく見えた。
 だが、もう私には必要がない気がした。
 彼女の言葉を思い出す。
「美味しそうなオレンジ」
 よく見ると確かに美味そうである。
 そう言えば、今日はろくに水も食べ物を摂っていない。
 私はカラカラ・ネーブルオレンジを半分に割った。
 ルビー色とでも言うのだろうか。ピンクグレープフルーツみたいというのだろうか。柑橘類を柑橘類で例えるのは良くないな。とにかく、夜の川辺でもその美しさが分かった。
 私は皮ごと口に放り込み、果肉を咀嚼した。
 美味い。
 だが、さすがに皮は咀嚼できなかったので、皮を口から見せる状態、子供がふざけているような格好をした。
 一人で口を開けて、なんと間抜けな姿で、愛を語り合う恋人たちの中に紛れていると思うとおかしくなった。同時に、この姿を誰かに見てもらいたくなった。知ってもらいたくなった。
 ちょうど後ろを、頬を赤らめさせたカップルが通りかかったので、がばっと振り返り、二人の前に我がオレンジ皮の口を見せた。

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