小説

『おきなさい』柴垣いろ葉(『檸檬』)

「おきなさい」
 私が朝目覚めると必ずと言っていいほどこの言葉を何度も耳にするわけであるが、それというのも私がああ朝が来たのだと自覚することには身体はずっしりと重く、頭の中は、さっき見ていた夢(それが悪かろうが良かろうが関係なしに)の続きに引っ張られ、笑ったり泣いたり忙しく朝を迎えるわけであって、また、おきなさい、とけたたましく響くその現実からの掛け声に敬礼し、さっと身支度をするような術を 17 年間生きてこの方1度も持ちえたこのがないのは、きっともう私の中の原始的な脳の中の遺伝子の中の DNA の奥深くに不覚にもプロジェクションがマッピングされているので仕方なく、私のせいではきっとない。
 だからといってそれを理解してくれるような家族をもちえなかった私の朝は、相変わらずあのけたたましい「おきなさい」からはじまるのであった。
 そんなある日のことだ。
 またいつものようにまた忌々しい号令から朝がはじまるのかと思いきや、今日の「おきなさい」はいつものそれとは違っていて、なんだか妙な感じがする。
 それは、昨日の夜中におなかが空いてどうしても眠れなくなってしまったために、私はキッチンへと身を屈め向かい、誰にも気づかれないように冷蔵庫を開け、豆乳のパックをひょいと掴むと、それを鍋で煮て湯葉を作り、醤油をかけてちまちまと食べていたのだが、次第にそのちまちまにも薄味にも飽きてしまって、豆乳をさらに沸騰させると、シーフード味のカップラーメンをサッと開けたら、沸騰豆乳をどばどば入れてそのままズズっとやってしまったのだった。ああ、きっとそれがいけなかったのだろう。胃もたれをおこしてしまっているのかなんだか下っ腹のあたりがむかむかしているし多分それだ。そう思い至ったところでまた例の「おきなさい」が放たれた。しかし、やっぱり妙なことには変わりない。
 妙な、というのは、普段私の部屋に響くそれは花や水の入っていない花瓶(この場合、壺 というべきなのだろうか)を思いっきり地面にたたきつけたような感じのするものなのだが、今日はなんだか、春のある晴れた日のまだ見ぬその姿を夢見て植えられたキャベツの苗畑 みたいな心地よさを醸し出している。
 そして、3 回目の「おきなさい」が聞こえたころには、私はもうそれが気になって仕方なくなってしまって、ゆっくりと身体を起こすと思い瞼を持ち上げた。

 すると、目の前には、なんと何人もの機動隊が私のベッドを取り囲んでいたのだ。あわててカーテンを開くと窓の外にはヘリコプターが飛んでいる。
 どこかから情報が漏れだしてしまったのだろう。私は、もう一度あたりを見渡し、まぬけなミノムシのように武装するその機動隊一人一人の分厚いガラスの向こうの瞳をひとつひとついじらしく見つめると、ゆっくりと布団の中からその檸檬を取り出して見せた。

1 2