小説

『沈黙の太陽』三角重雄(『名人伝』)

「知ったとおっしゃいますと」
「やがて天の歓びも高まり、甘露を降らせた。甘露は無憂樹の朱色の花を散らし、花の香りが匂い立った。そしてマーヤー妃の上に無憂樹の花が散りかかり、足下の大地にその朱色が敷かれたまさにその時、ついに一人の赤子が産まれた…。知ったというのは、その時を感知したということよ。汝、ナーラカ。覚者が誕生されたのじゃ」
「赤子が覚者ですか?」
「その方は将来、大いなるダーマを体得され、この世の一切の苦を救いたもう聖なる御子なのじゃ。ワシはすぐに斎戒沐浴し、王のお召しに備えた。王は国土の数々の異変に驚かれ、すぐにワシをお召しになることは分かっておったからじゃ。何しろ鳥は沈黙し、獣たちは咆吼をやめ、太陽は輝きを増したのだから。お前も知っての通り、ワシは未来を見ることができる。王に乞われるままにワシは、赤子の未来図を語った。『お悦びください、陛下。ご誕生の王子は、修行者となられたならば大覚世尊となり、在家であらせられれば転輪聖王、王の王たる王になられるでしょう』と」
「それならばなぜ、かくも悲痛な憂え顔をなさるのです」
「ナーラカよ。申したではないか。ワシには未来が見えると。二つの悲痛な未来が見えるのじゃ」
「お聴かせください。その二つとは?」
「よかろう。教えようとも。ワシもおまえに頼みがある。先ず一つ目だが、あまりにも痛ましいことに、王子は間もなく母なき子となられる。ワシはそれが気の毒でならない」
「なんと!それはいったい何故でございますか?」
「覚者の誕生を歓ばぬ闇のものが、野外出産の無防備につけ込んで、マーヤー妃のお体に病の気を送ったのじゃ」
「それは、伯父上の法力でお治しできないのですか?」
「とてもとても。ワシの法力では及ばぬわ。それどころかこの世のいかなる者の法力でも、あの悪行を止めることなどできなかった。また、妃の病を治す法力の持ち主もおらぬ。いや、ワシとてあれなら…」
「伯父上、何ですか?」
「いや、何でもない。それより、二つ目の悲しみじゃ」
「そう、それをぜひお聴きしたい。伯父上の悲哀を分かち合いたいのです」
「ナーラカよ。それは無理というものだ。これは他の誰も代われない、ワシだけの憂いなのだ。今日は、永らく待たれた光明の王子が、この世に出現された記念すべき日だ。あの方はこの世の生きとし生けるものを照らす太陽、抜苦の慈悲の方じゃ。今生、前世の因縁によって同じ時代に生まれ合わせた人々は、覚者の同時代人としてその尊顔を拝し、その声を聴き、その教えに導かれるという恩恵に浴することが出来るのじゃ。だが、ワシはもう長く生きられない。あの方が説法を始められる日はまだ先だ。覚者への道は厳しく遠いのだ。あの方が覚醒され、大覚世尊となられ、聖なるダーマを説かれるまで、私はとうてい生きてはいられない。私が生涯を掛けて追い求めたダーマの真実を、ついに私は知らぬままこの世を去らねばならない。私にはそれが残念でならないのだ」

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