「いえ、これではいけません。僕は、不正をして合格にはなりたくないです」
その言葉を聞いて、男はこの生徒が救いの手を自分から放そうとする気持ちが分からなかった。少し不愉快な気持ちで男は言った。
「不正ではなく、これは偶然だろう。それに、これを不合格にしたら単位がとれないだろう」
「不合格になったのは、僕の力不足なんです。次の再試験までに、勉強をします」
ますます男には、彼がなぜそう言うのか分からなかったが、それでもまだ気を取り直して言った。
「お前が正直で真面目だから、そのぶん点数をやろうと俺は思うんだがな」
「それは試験の点数ではありません。先生は昔僕にそうおっしゃったはずです。自分に恥ずかしいことはしないように、そう僕は今も思っています」
そう言われて男は、はっとした。昔この男子生徒が不正を働こうとしたときにいさめたことを思い出した。
生徒を帰した後、男は職員室を出て、開いたままになっている再試験をした教室に入った。そして教卓に座ると、じっと考えた。
神田の足を引っ張ったのは、俺だった。引っ張り上げるどころか、神田も、そして俺もずっと這っていたのだ。
そしてこうも思う。今、俺の前にはどこかへとつながる一筋の糸が垂れている。きっと俺は脇目もふらず、必死で、上って行かなければならないのだ。
男は息をつくと、ようやく席を立った。それから男はドアを閉めて、教室を出ていった。
放課後人気の無い校舎には、もう日が落ちかけて、誰もいない教室の机を斜めに光が照らしていた。