小説

『何の、糸』三号ケイタ(『蜘蛛の糸』)

 まるで地の底でも見ているようだ。男は、そんなふうに思わずにいられなかった。将来に対しての展望があるわけでなく、この再試験を合格したところで、きっとまた次の試験までに、彼らは落ちていってしまうのだ。

 男がぼんやりと生徒を眺めていると、その目に、一人の生徒が映った。それは神田という男子で、怠学によってこの再試験になっている者達に漏れず、授業態度もそう良いわけでなく、また、さして学力が高いわけでもない生徒であった。そうして試験で不合格になり、他の生徒と同じように再試験を受けているのだった。しかしこの時、男はこの神田という生徒を見て思い出すことがあった。
「そういえば、この生徒は以前、テストでの採点の誤りを指摘したことがあったな」
 男は一年ほど前、この生徒のテストの点数を誤って高くつけてしまったことを思い出した。そのときこの生徒は、正直に名乗り出たのである。言わなければそのままの成績でもあったろうし、高くついた点数を直してくれ、という生徒は、この高校にはめずらしく、その時の男には殊に新鮮に感じられたのだった。
「もし、この生徒のテストの点数が規定の点数に満たなければ、少し融通してやることにしよう」
 男はそう思った。時計を見ると、試験終了の時間まであとわずかであった。
「よし、試験はここまでとする」
 男はそう言って、再試験を打ち切って職員室に出て行く生徒の顔を見た。みんな一様にけだるそうな顔をしていた。
 男が職員室に戻って採点をすると、果たして、神田の点数は規定よりも五点ばかり足りないのだった。
しかたのないやつだ。男はそう思いながら、点数を五点ばかり水増ししてつけてやった。これで神田の単位はなんとか守られたことになる。
「奴が俺に感謝をするわけではないだろうが、俺が人知れず助けの手をさしのべたから奴の単位が出るのだ」
 男はそう心の中でつぶやき、試験の返却をすることを考えると、気分が高揚するのだった。

 再試験の返却は翌日に行われた。合格した生徒は数少なく、残った者達は不合格である。彼らが卒業に必要となる単位を手に入れられるかどうかは次の期末試験の点数次第となるのであった。
 試験用紙を返し終わると、男はよく見直しをするように言い渡した。神田をちらと見ると、神田もまた、点数を確認しているようだった。男はしばらく待ったが、誰も訂正に現れる者はなかった。男は神田の方をまた見た。神田も男と一瞬だけ目が合って、しかしその目は下を向いて、それきりだった。
 男は別に神田が何の反応を示さなくてもよかった。ただ、神田自身が、何の理由かは分からなくとも、再試験に合格したということが分かればいいと思っていた。それよりもむしろ、男自身の中では、どこか冷たい心地好い気持ちに満ちていた。

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