小説

『何の、糸』三号ケイタ(『蜘蛛の糸』)

「後ろに問題用紙を配ってください」
 男がそう言うと、生徒たちは規則正しく問題を後ろに回し始めた。全ての席に問題用紙が行き届いたのを確認してから、男は息を吸った。
「それでは、はじめ」
 そう言った後で、男は教室を見回して、だらだらと解答を始めた生徒たちを眺めた。ここからしばらく自分のやることはない。男が窓の外に目をやると、放課後の下校する生徒がまばらになった中庭には、鈍く陽が指していた。

 男は、県内で高校の教師をしていた。都会と言うよりはむしろ森や田んぼが近くに多くある田舎の高校に赴任してからもう七年目になる。この日は二学期の中間試験の再試験が行われているのだった。
 男は、目の前の生徒をぼんやり、眺めていた。今こうして再試験を受けている生徒達のほとんどが、やるべき宿題をやらずにため続けているものだとか、授業中終始眠り続けていたものだとかで、落ちるべくして落ちてきている者ばかりだった。そんな者達をこうして再試験で救ってやろうというのだから、よほど俺には慈悲の心がある。そう思って、しかし逆に、この再試験でも合格できずに落ちようものなら、遠慮無く単位を落としてやることができるのだから、いわばこれはふるい落としの最終段階のようではないかとも思って、男は心の中で小さく笑った。
 こうしてここでもがいている生徒を眺め続けなければならないのも、辛いものがある。そう思いながら、男は黒板の前の教卓に腰を下ろした。
 男の口から自然と、深い息が漏れた。

 以前は、と男は思う。もっと、自分の目の前の光景は明るかったはずだ。生徒達がこの先どう生きていけるのかは、自分の働きかけで変わる。そんな気持ちでいた。一年ぐらい前、今みたいな試験でカンニングを働こうとした生徒がいたときも、男は毅然として叱ったのだ。
「君はそんなことをして恥ずかしくないのか。こんな手段で成績を取ってもこれでは君自身は心の中でどん底のままじゃないか」
 男がそう言うと、その生徒は涙ながらに男に謝ったのだ・・・・・・

 男はそのことがずいぶん昔のことのように思えていた。男がしばらく座っていると、頭にじんわりとしたしびれが起こり、男の目の前が揺れた。男は目の前にある机や黒板や生徒の姿や、空気がどこか他人事で、まるで画面を一枚か二枚くらい隔てているかのような感覚を覚えた。
 男は、まるで自分だけがこの場にいる当事者でないかのような気がして、ゆっくりと席を立った。生徒の答案を眺めながら教室をぐるりと巡回して、それから教卓の前に座った。目の前を再度眺め回して、そして男が思い浮かべたのは、同じ世界を生きていない生徒達の姿だった。彼らは目の前の単位を必死で取ろうと這い回る立場で、それを池の中の鯉でも眺めるようにしていられるのが男の立場だった。

1 2 3 4 5