小説

『人間犬』太田純平(『人間椅子』江戸川乱歩)

 玄関の明かりが点き、奥様が出て来て私に「おはいり」と言った。
「ハイッ!」
 そう返事をしてしまいたい衝動を抑え、私は老犬として、ノソノソと這って玄関の中に入った。
「アア、この瞬間を、どれほど待ち望んだ事か――」
 私は奥様の後に従って、リビングの中に入った。マスクをしているから、ニオイが分からないのが残念だ。きっと奥様の、甘美なニオイが漂っているのだろう。
 さぁ、ここからはもう、予習や計画の範疇ではない。全てがアドリブである。今、こうしてリビングに入った後も、一体どこに向かって、何をするべきなのか、サッパリ分からないでいる。
「アア、奥様、何か御命令を――」
 私は全身から冷たい汗をタラタラ流しながら、思考力も何も失っていた。
 私は、近くにあったソファの脇に横たわった。というより発覚を恐れ、もうこれ以上動きたくなかった。
 すると、奥様がソファに腰掛けテレビを点けた。夕方のニュースだ。今、私はこうして奥様と、夕方のニュースを見ている。これを『奇跡』と呼ばずして、何と呼ぶのであろう。
 私は小学五年生の頃から、女は神聖なものだと思っていた。いや、むしろ怖いものとして、顔を見る事さえ遠慮していた。しかし、こうしてみると案外、女という生き物は、自分とさして変わらない。ソファに座り、テレビを見て、時折「ウソ」だとか「コロッケ美味しそう」だとか、独り言を呟いたりしている。
「アア、女なんてものは、神じゃない。普通、普通なんだ――」
 私は四十歳を手前にして、ようやく呪縛から解放された気がした。もう、こんな卑怯な真似をしなくても、同じ人間として堂々と、異性と会話が出来そうな気がする――。
「おいで」
 不意に、奥様が私を呼んだ。
 ついに、私は奥様に愛される時が来たのだ。
 私はノソノソと動き、奥様の脚に擦り寄った。
 すると奥様はソファから下りて、私を抱き寄せてくれた。
「アア――」
 私は奥様の太腿に身を預けた。奥様はそんな私を優しく撫でて可愛がってくれた。私はその指のしなやかさに、人間の動物に対する慈愛を感じた。これは決して、人間の姿であったら味わえない感触である。たとえ私がどんなにイケメンで、どんなに金にものを言わせたとしても、奥様に動物として可愛がられるという『人間ゴールデンレトリバー体験』は出来ないのである。

 
「アア、このまま死んでもいい――」
 私は奥様の愛情に応えるように、モゾモゾと身体を揺すった。奥様も奥様で、こちらの愛情表現が伝わっているように身体を撫でてくれた。
 私はやがて、奥様の愛情を感じれば感じる程、自分の醜さに腹が立っていった。「私が醜いのは、顔ではなく、心の方であったか――」

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