「やっぱり、やめておくか――」
ここにきて私は、だいぶ怖気づいていた。
「アア、金澤家の奥様――」
私の欲望が理性を撃破したのは、久しぶりに、金澤家の奥様のご尊顔を拝した時だった。
「アア、あの奥様に、どうしても可愛がられたい――」
私は元来、容姿にコンプレックスがあった。高校時代のあだ名は『ネズミ男』である。だから、どう間違っても、あの奥様と直接お話をするなんて事は永遠に出来ない。
それに計画だって、詳細を詰めていけばいくほど、それほど荒唐無稽な話でもない事が分かって来た。というのも、何も、この先ずっと犬として生活していくわけではない。金澤家の中に入り、たった数時間だけ、奥様と共に寛ぐだけである。とどのつまり、着ぐるみのクオリティも、私の体力や排泄行為なども、たった数時間辛抱すればいいだけの話である。第一老犬だから、あまり家の中でも動かないはずだ。となると、犬らしい演技なんてものは、そもそもそんなに考えなくていい。
さらに私は、計画を実行するかどうか逡巡していた日々も、着ぐるみにちょくちょく手を加えていた。着ぐるみの宿命たるファスナー部分からの発覚を恐れ、自分が出入り出来るだけの最小限に改良した。舌の感触の再現は、直前にローションを塗る事で解決しそうだと目処が立っていた。また、万が一にも咳込んだりしてはいけないから、着ぐるみの内側に吸音材を張り、着ぐるみを着る直前に、マスクを付ける事に決めていた。
こうして私は、いよいよ、計画を実行する決意を固めたのであった。電飾の煌きがピークを迎えた、十二月中旬の事である。
「アア、メリークリスマス」
それは、クリスマスが数日後に差し迫った夕方の事だった。仕事の有給を取った私は、この日の昼過ぎ、睡眠薬入りのドッグフードを老犬の前に投げていた。
そして、今。まんまと大人しく眠っている老犬を抱え、私はアパートに向かって走っている。緊張のあまり、何も聞こえないし、何も考えられない。私は今、ただ計画に従って動くロボット人間であった。
暗闇は犯罪者の味方である。日の短さに、これほど感謝した事は無かった。アパートの自室に老犬を置くと、すぐさま着ぐるみを持って家を飛び出した。
誰にも不審な目を向けられず、金澤家の敷地の中に舞い戻って来た。そして何度も練習を重ねた通り着ぐるみを着て、犬小屋の前にダランと伏せた。
「アア、今、私という存在は人間界にはいない! 私は今、犬だ! 私は今、人間ゴールデンレトリバーなんだ!」
私は歓喜した。私は犬小屋の前でひたすら伏せ、奥様に招き入れられるのを今か今かと待ち侘びた。
そして、ついにその時が来た。