小説

『網棚の遊戯者』間詰ちひろ(『屋根裏の散歩者』『赤い部屋』)

 ありがとう、とも言わずに里田はどっしりと電車の座席に腰をおろした。打ち合わせに時間がかかり、遅くなった場合は会社に立ち寄らず直帰して良いと上司から指示されていた。智子は「あの計画」を実行するなら今日しかないと思っていた。里田と智子が横浜から乗った特別快速は、群馬県の高崎が終点となっている。会社のある大崎で智子が電車を降りた後、里田は一体どこで目を覚ますだろうか? 即効性の強力な下剤は、どこで里田の腹に刺激を与え始めるだろうか? 
 智子は網棚の上に資料がたっぷりと入ったトートバッグを乗せる。内ポケットには、もちろん準備した下剤が入っている。このバッグを網棚からおろすときに、ぽとりと里田の口の中に下剤が落ちれば成功だ。チャンスは一回しかないのだから、慎重にやらなくちゃいけない。智子は真剣な表情でトートバッグを見つめていた。心なしか、つり革を握る手は震え、背中につうっと冷たい汗がながれていった。緊張で張りつめている智子とは対照的に、何にも知らない里田は、いつも通り座席に座ってすぐに、眠りはじめていた。いつもと変わることなく、ぱっくりと大きな口を開けて。
 電車が大きく揺れるたび、智子の胸はキュッと縮んだ。手のひらには汗をかいて、つり革を掴んでいる手が気持ちわるい。智子は電車が大きく揺れることを想定していなかったのだ。この路線はカーブが多いのに、長距離を走るためスピードを出して運行している。そのためいつだって電車が大きく揺れるのは分かっていることだったのに。智子が何度もひやりとした後に、網棚に乗せたトートバッグは大きくガタンと傾いた。智子が考えていた角度とはあらぬ方向に、トートバックはずれてしまった。
「……内ポケットの下剤、つぶされちゃったかな……」
 智子は、とてもがっかりしたけれど、ほんのすこしだけ安心もした。イタズラというには度を超している。自分自身の思いつきを実行するべきじゃなかったんだよね、という思いがチラリと頭をよぎったからだ。電車が揺れるのは当たり前なのに、計算できていなかったし。
「あーあ。なんだか、あっけない結末を迎えちゃった。ひとりで緊張したり、冷や汗かいたりして。バカみたいだな」智子がそう思っていたとき、電車のアナウンスが「つぎは大崎」と鳴り響いた。
 そうだ、次で降りなくちゃと、智子は背伸びをして網棚に乗せたトートバックを乱暴に引き摺り下ろした。予定とはあらぬ方向を向いてしまっているのだから、計画は失敗だと思っていた。しかし、勢い良くバッグをひっぱったせいだろうか、内ポケットの中から下剤がころりと飛び出してきた。その薬は放物線を描き、智子のおでこにコツンと当たった。
「あっ」智子はびっくりして、思わず声を出してしまった。智子のおでこに当たった下剤は飛び出した勢いを失わずに反射して、ストーンと一直線に里田の口の中へと飛び込んでいった。まるでブラックホールに吸い寄せられた小惑星のように、小さな錠剤は暗闇の中へ消えてしまった。智子の驚いた声に反応して、里田の右隣に座っていたサラリーマンだけが上目遣いでちらりと智子の様子を伺っていたが、何ごともなさそうだと判断したのか、また静かに目を閉じた。

「大崎、大崎」電車のアナウンスが降りる駅を連呼している。
「里田主任、わたし、会社に寄りますので」眠っている里田に声をかけながらも、里田の顔をまじまじとは見ることができない。ただ、里田自身は起きる気配なんてサラサラないという様子だった。このままでは、おそらく終点まで行ってしまうだろう。……腹痛に襲われなければ。

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