小説

『網棚の遊戯者』間詰ちひろ(『屋根裏の散歩者』『赤い部屋』)

「詳しい検査結果は、改めて郵送でお送りしますが、見たところ大きな問題はなさそうですね」
 智子はバリウム検査を受けた直後、医師による問診で検査結果を聞いた。大きな問題は見つからなさそうだと言われ、すこしホッとした。けれど、胃の痛みの原因はやはりストレスではないかといわれ、大きなため息をついた。
 バリウム検査の後「今すぐに飲んでください」と、下剤を二錠、医師から手渡された。一錠はその場で渡された、たくさんの水と飲むように。もう一錠は持ち帰り、十二時間経過しても下剤の効果がなさそうであれば追加で飲むようにと指示された。バリウム検査を初めて受診した智子は、すっかりくたびれていた。バーに掴まりながらぐるぐると身体を左右に転がして、飲んだバリウム液を胃壁に付けるという、思った以上に原始的な検査方法で、疲れて果ててしまった。
「里田さんにぐちぐち言われるから、午前中だけ休んで、午後から会社にいこうかなって思ってたけど、一日有給とって正解だわ……」
 すっかり疲れてしまったし、下剤を飲んでいるという不安もある。どこかに立ち寄る余裕もなくて、まっすぐに自宅へと帰ることにした。幸い、帰宅中にトイレに駆け込むような事態は起こらなかった。自宅のくつろいでいる間にもよおしてきて、バリウムはスッキリと身体の外にでていった。

 飲まずに一錠残った下剤を捨ててしまおうかと、カバンから取り出したときのことだ。智子の脳裏に、あるひとつの考えがもやもやと霧のように浮かびあがってきた。
「この下剤、里田主任の口に放り込んじゃおうかな……」
 電車のなかでパカリと口を開けて眠っているすきに、ぽいっと放り込んでしまえば気がつかないんじゃないだろうか? 普段嫌がらせを受けている腹いせに下剤をのませるだなんて。さすがにそれはやり過ぎだろうか? だれかが見ていて、通報されたら、犯罪になるだろうか……。でも、もしも、偶然口の中に落っこちちゃったら? 仕方ないんじゃない? ……そう、私がまえに電車で麦茶の雨を浴びたみたいに、ほんとうに偶然に。
 智子は自分の頭の中に浮かんだ考えに対して「やってみたい」という気持ちが止められなくなっていた。何も、毒を飲ませて殺してしまうわけじゃないんだし。偶然、網棚に乗せた荷物の中から下剤がこぼれ落ちて口の中に入っちゃった。ただそれだけのこと。もしかしたら、口の中には落ちないかもしれない。むしろ口の中に落ちない方が可能性としては、たぶん、高いはず。

 偶然に起きることなんだし、うまく口に入らない可能性が高いんだから。智子は自分自身にそう言い聞かせながらも、浮かんだ考えを行動に移してしまいたい自分を止められなかった。
「金曜日の打ち合わせの帰りが、試してみるチャンスかも……」
 そう思うと、もう居ても立ってもいられない。智子は椅子に座って首を上に向けてみる。口を開けたときに真上に来るのはどの辺りが理想的か、シミュレーションを重ねた。下剤は偶然に、カバンからこぼれ落ちなくちゃいけない。そのため普段資料を持ち運ぶときに使っているトートバッグの内ポケットにちょっとだけ穴を開けてみようか? など、偶然とは決して言い切れないほど綿密に、実行に向けた試行錯誤を続けていた。


「里田主任、座席空きましたので座ってください。私はいったん会社に戻って、資料を戻してから帰宅しますので」

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