小説

『網棚の遊戯者』間詰ちひろ(『屋根裏の散歩者』『赤い部屋』)

 智子が里田の嫌がらせを我慢しようと思うには、もうひとつ理由があった。里田が智子に絡んでくるのは、もっぱら外回りの移動中だけだ。里田は「車で移動するより、電車の方が時間読めるでしょ」といって、よっぽど郊外へ出かける時以外は電車での移動を好んでいた。ふたりで外回りに出て、駅に向かう。用意した資料を持つのはもちろん新人である智子の役目だ。資料を運ぶ為に使っているトートバッグは、肩にめり込むほどずっしりと重い。智子はひどい肩こりと筋肉痛に悩まされた。北村と外出していたときは社用車で移動することが多かったし、こうして重い荷物をひとりですべて持つこともなかった。パワハラまがいではあるけれど、荷物持ちの仕事は新人の役目だと智子は思うようにした。里田にとって雑用程度のことは、後輩がやって当たり前、と思っているにちがいない。
 会社の外に出ると、すぐに里田はぐじゅぐじゅと、どうでもいいことで智子に絡みはじめる。けれど電車に乗って、運良く座席に座ったとたん、里田はころりと眠ってしまうのだ。電車で座らせてしまえば静かになるんだから、さっさと座らせてちゃえば良いやと智子は割り切って考えることができた。座席がひとつしか空いていないときは「里田主任、座ってください」と、智子は率先して席を譲るようにした。
 はじめのうちは気にならなかったけれど、電車の中で眠る里田の姿は、滑稽だった。背中をシートにもたれさせて、首をがくんと後ろに倒している。上を向いた口は、だらしなくパッカリと開ききっている。締まりが悪い巾着袋のようだ。イビキこそかかないけれど、その姿勢でかなり深い眠りについているらしい。降りる駅になっても起きようとする気配がない。智子が「里田主任、降りますよ」と必ず起こしてあげている。里田本人は、大きく口を開けて眠っていることに気がついていないようだ。ただ、起きたときには口の中が乾いているらしい。電車から降りるとカバンの中からペットボトルをとりだして水を飲んだり、ミントタブレットを乱暴に取り出し、口の中に放り込んでいた。


「里田主任、すみません。わたし明日有給でお休みもらってるんです。金曜日の打ち合わせの資料は今日中にまとめときますので」
 里田とコンビを組んでからずっと、智子の胃はシクリシクリと痛み続けている。ストレス性の胃痛しか心当たりはないけれど、念のため検査を受けた方が良いのではないかと悩んでいた。以前のコンビである北村先輩と夕食を食べたときに相談したところ、会社で提携している医療機関で「胃部X線検査」、いわゆるバリウム検査を受診し、申請すれば会社から一部負担金がもらえると教えてくれた。とりあえず気になっている程度なら、安くすむし、その検査を受けてみれば? と北村は心配そうにすすめてくれた。そうして智子は休みをとって、バリウム検査を受診することにしたのだった。
「へえ。先輩を差し置いて有給とるなんて、うらやましい性格だね。まともに仕事もしてないのに、休んでまでお給料がもらえるなんてねえ」
 里田はちくりと嫌みを言ったが、智子は何も聞こえなかったふりをした。「資料作ってきます」と言って、シクリシクリと痛み出した胃を押さえながらその場を離れた。

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