小説

『さいごのひとはな』菊野琴子(『さいごのひとは』)

「これはもう、職業柄仕方ないってわかってるんですけどねぇ」と言いながら、かたい指先をいつもさすっていたひと。その指先で丁寧に生けられた花を、今私は抱いている。毎日水を替えて、適宜水切りをするだけで、卜部さんのところの花たちはいつも一週間以上元気に咲いてくれていた。
「いっしょに、来てくれる?」
 ちいさく話しかけて花弁に触れる。今日、私はこの病室を出る。おそらく、何も、劇的には変わっていないままに。
 指先で軽くドアをたたいて、あのひとが入ってきた。
「佐和、準備ができたなら、行こう」
 ああ、なんて素敵なんだろう。
 少し見惚れていただけなのに、そのひとは所在なさげに眉をひそめた。
 ごめんなさい。胸の内でつぶやく。声に出してしまっては、また彼が心を痛めてしまうから。
 彼のすべてが天上のもののように見える。昔も今も、その気持ちは変わらない。
 ずっとひとりで、つらいという言葉すら入る隙間のない日々を過ごしてきたひと。そのすべてを、愛している。彼のためなら、この命を使っても構わないと、ずっと思ってきた。けれど、彼のために必要なこの命を決してこの世からなくすまいという覚悟も、していた。だから私はひとりでこの病室に来たのだ。
 彼が抱えてきたものを全て背負って消えることができたなら、どれだけ楽だったか知れない。川に流される人型のようにこの命を使えたらどれだけ楽だったか知れない。それでも私が愛したこのひとは、それを決して許さないひとだったから。だから、…それでも。
「うん。行こう」
 触れた腕が、まだかなしい。
 このひとの身体は群雲のよう。その向こうには確かに太陽が存在していると、そして決して消えはしないのだと知っていても、いつまでも霽れぬ雲を見続けるのは苦しい。
 ロビーに出ると、マスクをつけた人であふれかえっていた。彼は「手続きを済ませてくる」と言って受付へ行き、私は待っているあいだに飲み物でも買おうかと、小銭入れを取り出して自動販売機へ向かった。他の荷物はリュックにまとめて背負っていたけど、花だけはつぶさないようにかかえていた。
 一週間で減ったとはいえ、病室いっぱいに咲いていた花は片手で持つには大きすぎて、私はうまくお金を取り出すことができずに、小銭入れを落としてしまった。小さな正方形の小銭入れが床にあたって跳ね、花火のようにして小銭が四方に散った。
 あ、と思ったときだった。
 音もなく手がのびてきた。大きな手、小さな手、つるりとした手、しわを刻んだ手、骨ばった手、ぷっくりとした手。
 左腕に花束をかかえ、しゃがんでとっさに拾い上げた小銭入れの中に、虹を描きながらこぼれるじょうろの水のように、小銭が落ちてきた。すべての小銭がおさまったと思ったとき、手は消えていた。
「大丈夫?」も、「どうぞ」も、無かった。
 手の持ち主は皆、せわしく先を急ぎ、それぞれにすべきことをしているようだった。

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