ささやかな送別会を開いてくれたときに、たぶん彼らの社交なんだろう。みんな口々にそう言ってくれた。
小さい頃からそうだった。はきはきした母親からも「ちゃんと喋りなさい、ムロ。はっきり言葉のしっぽまで言うの。じゃないと嫌われるわよ」
星尾はおなじことを言われ続けて40を超えてしまった。
消え入りそうな語尾とともに、これまでの人生を歩んできた。
妻の紅葉ともそうだった。ほんとうは俺は紅葉の親友だった田辺さんが好きだった。なのに紅葉と付き合って、別れようと思っていた日になにがどうなったのか。
「紅葉さん、僕は君と出逢うべきじゃなかったかもしれない」
たしかに、そう言った。
なのに。彼女は「そうだよね、そうなんだよ。出会うべくして出逢ったんだって」と、返してきた。
そしていつのまにかウェディングベルを鳴らしていた。
妻の紅葉は、いまのところ翻訳をしたりライターをしながら家計をささえてくれている。
ある日の夜。なんとなく家に帰るのが億劫になっていたのでぶらぶらと街を歩いた。バスに乗る。いつのまにか雨が降って来たらしい。とあるビルにある店の真鍮のドアが濡れていた。ドアを開けると、緑色の絨毯が敷き詰められていた。
芝生の様な絨毯だった。螺旋状の階段。貝殻の渦巻きと同じ構造の階段は下を覗くとまだその先に奈落があるようにみえて、立ち位置がわからなくなる。扉の文字がはがれかかっていた。<TOKA>
こういう店が、ちょうどいいのだと言い聞かせる。クロークらしきところには初老の男の人が新聞紙をあわてて畳む仕草をして、むかえてくれた。
口元に髭があって、眼の大きい黒ぶち眼鏡の人。肩幅は広いけど薄い。
「いらっしゃいま」
なんとなく気にはなったが、気にしない。
星尾は席につく。ただのビールでいい、喉をうるおしたかった。
バーテンがいたのでオーダーする。
「はい、わかりました。生ビールでございま」
たしかにそうきこえた。
店は薄暗かったが、客はちらほらいた。肘とボックスプリーツのあたりが黒光りしているくたびれたスーツの男の人がしきりに喋っていた。
「でさ、どひゃって雨が降ってきて、靴のなかがずぶ・・・」
たしかにそうきこえた。
「でもさ、前の上司も飛ばされたって聞いて、わらっ」
バーテンダーが教えてくれた。みんなどこかしら所属場所を失ったものばかりの集まりだった。しがみつきたい思いゆえにくたびれたスーツを着続けているのだと。そういうことなのかと星尾は溜め息をついた。それよりも知りたいのはここにいる見知らぬ者たちは、みんな語尾をなくしていたことだった。