小説

『あなたは人形』中杉誠志(『人形(文部省唱歌)』)

 たとえば、昔、料理の手伝いしてるときに、包丁でざっくり指を切ったことがある。左手の親指の先端がベロンとめくれて、血がドバドバ出た。……いや、よりリアルな表現するとヌーって感じで出て、痛いよりもまず、その光景がショッキングだった。その頃はまだ、女子特有のあの、月ごとに大量出血するようなバイオリズムもなかったから、あたしは血を見るのに慣れてなかった。混乱して泣きわめくあたしに、ママは童謡を歌ってくれた。『人形』を。
「私の人形はよい人形……」
 って。
 いやいや、歌ってるヒマあるなら手当てしてくれよ! 止血! 消毒! いろいろやることあるじゃん! 非常識にもほどがあるわ!
 幼心に頭のなかでツッコミを入れると、なんだか冷静になれた。傷口から溢れるドロっとした赤い液体を舐めとると、流水で洗い流して、清潔なタオルで水気を拭いて、リビングの壁際にあるチェストから救急箱を取り出して、オキシドールで消毒して、絆創膏を巻いた。当時小学三年生だよ? あたし、すごくね?
 で、なんの話だっけ? そうだよ、ケガだよ! あたしケガするし、自然治癒もするんだよ! 余裕のホモ・サピエンスだよ! 逆にここまでリアルな人間型ロボット作れたら、うちのママ、ノーベル賞とれるわ! いや、とれるどころじゃねーわ! 十個くらいとれるわ! で、ノーベル賞受賞者が記念にもらえるメダルでオセロできるわ!
 結局そのアホくさい噂も七十五日くらいで消え失せた。そりゃそうだよ、あたし全然人間だもん。身長は伸びるし、体重も増える。体重に関しては減らしたいのに増えやがる。あごの下とか胴回りに脂肪がつく。そのくせ胸は大きくならないんだけどな。ははは。うるせえ、ほっとけ。
 噂が消えて、残ったのは、あたしがマザコンっていう定説だけ。みんながからかう。でもさ、なんでそんなママが好きだとおかしいの? おまえら母親に感謝してねえの? そりゃ、男が母親にベタベタしてたら率直に「うわ、キモ……」って思うけど、あたし、女子だぜ? 女子歴十七年のベテラン女子だぜ? 女子ならいいじゃん! 女同士なら多少ベタベタしたってさあ。
 みんながからかうこんなあたしを、ニシムラだけは、からかわない。
「すごくいいことだと思う」
 っていってくれる。
「家族を大切にする人って、素敵。だからおれ、マリのこと愛してる」
 って。
 ニシムラの家は、うちと違って両親と祖父母、それに姉と弟がいる拡大家族。で、両親は共働きだけどそんなにお金持ちじゃなく、かといって貧乏でもない。普通の家。本人は全然普通じゃないけど。
 なにせ自他共に認めるマザコンで、ロボット疑惑すら出たこのあたしに、一年間も愛を語り続けるような狂人だから。

「今日、男の子と歩いてたわね」

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