小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

こんなときでさえ、無意識にお酒と結び付けてしまう自分に呆れながらも、思考の暴走は止まらない。
 見たい。
 すべての感情を葬ってしまう前に知っておきたい。もしかしたら、わたしが歩むはずだった未来を、この目で見てみたい。
 そう思ったときには、もう体が動き出していた。
 リビングの壁にかけられた時計で、今の時間を確認する。時刻は午後三時をまわったところだった。幸い、母はまだパートの仕事から帰宅していない。
 わたしは階段を駆け上がると、ドレッサーの引き出しからマンションの鍵を取り出して無造作にポケットに入れた。そして、お財布と携帯が入った小さなバッグを掴んで家を飛び出した。
 最寄り駅の改札を出て右に曲がり、商店街を抜けて左、二つ目の角を左に曲がって坂を上った頂上にあるベージュ色の壁のマンション。そこの六階の一番右端が、かつての「愛の巣」だった部屋だ。
 わたしはマンションの前に立ち、目を凝らして部屋を眺めた。窓にはカーテンが引かれ、中の様子を窺い知ることはできない。夕方の陽射しが、佇むわたしの長い影をアスファルトに焼き付けている。
 目には見えない強力な磁力に引き寄せられるように、わたしはマンションのエントランスに吸い込まれた。恐る恐るインターホンを押す。何度か繰り返し押してみたけれど応答はなかった。
 引き返すなら今だ、と頭の中で声がする。わかっている。それでもどうしても踵を返すことができない。
 そこへマンションの住人が中から出てきた。わたしはエントランスのドアが閉まらないうちに、するりと自分の体を滑り込ませた。
 ポケットの中には部屋の鍵が入っている。わたしは汗ばむ指先で鍵の形状を何度も確認しながら、ゆっくりとエレベーターに乗り込んだ。
 鍵穴に鍵を差し込んで回すと、カチャと音がして施錠が解除された。恐る恐るドアを開けて、中に入る。部屋の様子は、わたしが住んでいた頃とはすっかり変わっていた。
インテリアは白を基調とした可愛らしいイメージで、至る所に生花や動物をモチーフにした小さなオブジェが飾られている。
 どの部屋も掃除が届いて、きちんと片付いている。奥さんになる女性はきっと几帳面で、可愛らしい感じのひとなのだろう。整理整頓された部屋の家具や小物のセンスからも、それが強く窺える。
 わたしは一体、何をしているのだろう。
 諦めて帰ろうとして、キッチンカウンターの片隅に置かれた小さなフォトスタンドに目が留まった。思わず手に取って眺めてみる。そこに写っていたのは無邪気に笑う雅彦さんと、雅彦さんに寄り添い安心しきった笑みを浮かべた若い女性の姿だった。
 フォトスタンドの横には、一冊の小冊子が大切そうに置かれてあった。それは表紙に雅彦さんと同じ苗字の名前が記入された、真新しい母子手帳だった。

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