小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

「ほら、煮物。美味しくできたから食べなさい」
 そう言って差し出された煮物だって、わたしの分は味付けを変えて別に作ってもらっている。抗酒剤に反応しないように、アルコール成分を含まない調味料で別に調理してもらっているのだ。
「そういえば雅彦さんから電話があったわよ」
「雅彦さんから?」
 雅彦とは、別れた元夫の名前だ。
「うん。小麦さんの具合はどうですか?って、心配していたわよ。ありがたいことよね」
 電話はいつも携帯ではなく自宅の固定電話にかかってくるので、わたしが受けることもあるし、母が受けることもある。亮悟の存在を知らない母は内心、ヨリを戻してほしいと思っているみたいだ。
 今でも、ときどき考える。
 もしアルコール依存症なんて厄介な病気になっていなかったら、わたしはどんな暮らしをしていただろう。赤ちゃんができて家族も増えて、忙しいながらも賑やかで充実した生活を送っていただろうか。それとも夫婦水入らずで、穏やかな暮らしを楽しんでいただろうか。
「ごちそうさま。洗い物は、わたしがやるから」
「そう? じゃあ、お願いね」
 洗い物を全て済ませて自分の部屋に戻る。鞄の中に入れっ放しになっていた携帯を確認すると、亮悟からメッセージが届いていた。診察を受けて無事に帰宅したことを簡潔に伝えて、返信する。
 今日も一日、お酒を飲まずに過ごすことができた。わたしはカレンダーに赤いペンで、大きな丸を書いた。
 お風呂に入ろうと階下に降りると、リビングからテレビの音が漏れ聞こえてきた。母はわたしが一緒にいるときは、遠慮してテレビをつけない。それは食べ物やお酒の映像を私に見せないようにするためだ。
 飲酒欲求を刺激するものは、生活の中に溢れている。それらは意識的に、わたしから遠ざけられていた。腫れ物に触るような扱い。でも、感謝しなければ。
 溜まってゆく心の澱やストレスを発散したくても、どうしたらいいのかわからない。逃げ道を塞がれて、わたしの自我だけが、醜く膨張してゆく。

 しばらくは平穏な日々が続いた。
 亮悟は介護施設で働き、わたしは通院しながら、ときどき断酒会の集まりにも参加した。劇的な回復は見られないけれど症状が悪化することもなく、わたしは『お酒を飲まない日々』を淡々と積み重ねていた。
 そんなとき母が言った。

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