小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

「小麦、明日は病院の日だっけ?」
 亮悟が遠慮がちにわたしの背中をまさぐりながら訊く。わたしは亮悟の体から発せられる健やかな獣の匂いを、胸いっぱいに吸い込んで頷く。
「うん」
 窓の外では、こぬか雨が春の緑をしっとりと濡らしていた。日曜日の午後は時間がゆったりと流れている。
「そっか。気を付けて行っておいで」
「うん。ありがと」
 仔猫みたいに抱き合って、そのままふたりで少し眠った。亮悟が話してくれた観覧車の夢を見たかったけれど、夢は何も見なかった。

 いくつかの電車を乗り継ぎ、さらに路線バスに乗り換えて、海沿いの国道を進む。目的地である医療センターは、見渡す限り続いている遊泳禁止の海岸から国道を挟んだ広大な土地に建っていた。
 明け方まで降り続いていた雨はすっかり上がり、潮の香りを含んだ風が心地いい。水平線に目をやると、ウィンドサーフィンの色とりどりのセイルが陽射しを浴びて煌めきながら滑ってゆくのが見えた。
 わたしは月に一度、アルコール科のある専門治療施設に通院している。そこで勉強会やミーティング、専門医による診察などを組み合わせた、アルコール依存症の外来治療プログラムを受けていた。 
 このことは亮悟には内緒にしている。病院へは持病があって薬をもらうために定期的に通院していると、ぼかして伝えてあった。
 かつて、わたしは普通の主婦だった。
 嫁ぎ先には口うるさい姑がいた。同居はしていなかったけれど、しょっちゅう訪ねてきては妊娠の兆候の無いわたしを「赤ちゃんはまだなの?」「早く孫の顔が見たい」と、容赦なく責め立てた。
 それが過剰なストレスとなり、四六時中、そのことばかり考えるようになった。そして不妊の責任の矛先は、いつしか自身へと向けられるようになった。
 わたしはストレスと責任から逃れるため、お酒で気分を紛らわせることを覚えた。
 最初は料理をしながら、缶ビールや缶チューハイを軽く空けるくらいだった。それがだんだんとエスカレートしていき、次第に日本酒やウィスキーなど強いお酒を手あたり次第に飲むようになった。
 お酒を飲んでいない素の自分は華がなく、地味でつまらない女でしかない。いじめられっ子だった、あの頃のまま。ダメな自分。弱気な自分。けれどもお酒は、心に空いた大きな穴を、いとも簡単に埋めてくれた。

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