小説

『異次元の私刑』岩崎大(『猿蟹合戦』)

 男がどこにもない視線でそばかす女の横を通り過ぎようとしたので、そばかす女は仕方なくといった表情で、足を引っかけて、男を転ばせた。引っ掛けた女の左足の、痛みともいえない感触が、さざなみのように引いていく。布を何枚も挟んではいるが、その感触の減退のなかで、猿顔の男を自分の身体に吸い込んでいるようで、そばかす女はひどく後悔した。
 うつ伏せに転んだ男の背中を、強面(こわもて)の大男が思い切り踏みつけた。猿顔の男はまた唸り声をあげたが、もう唸り声をあげることは皆が知っていたので、飽き飽きした。すぐに声を止め、動きもせず、ただ背中で呼吸するだけになった猿顔の男が、それでもあの笑顔を床に擦り付けていることは明らかだった。だから仲間たちは、それを考えないようにした。ただ目の前に転がっている、酔い潰れて寝てしまった無様な男のことだけを考えて、用意していた言葉を口々に吐き出した。怒鳴る声、静かに脅す声、嘆願する声、蔑(さげす)む声、それらが入り混じり、反響し、この空間を中和しようと抵抗していた。しかし、それは適わなかった。

 街のはみ出しものである仲間達は、月明かりに照らされた老婆の墓前に立っていた。誰も手を合わせて老婆に語りかけることはせず、飲みかけの安酒や、老婆にもらった菓子などを供えている。みな、張り付いたような笑顔をしている。とんがり鼻の男は、慎重に、猿顔の男のあの背中だけを思い出し、老婆が死んだあの日、あの場所にそれを置いた。ゆっくり、はっきりと話しかけてくる老婆と、曲がった背中越しに見える美しい世界。その視界の端で、悪意なく世界を侵食する、異次元の背中。とんがり鼻の男は、供えた安酒をもう一度、自分の身体に流し込んだ。

 ある日、猿顔の男が死んだ。書き置きが残っていた。
「私は人のために生きてきました。私は人のために生きたいので、死にます」

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