小説

『海辺のボタン』もりまりこ(『月夜の浜辺』)

「3回忌ぐらいであたしのこと忘れてくれていいよ」
 栞が微笑みながらかつて口にした言葉を思い出す。ただただくやしくてなにも言えなかった。栞の眼には車のテールランプがいっしゅん映りこんで、さっと消えた。赤や青が混じったデジタルの河のような感じがした。
 砂浜の砂の中で光ってるその光は、あの頃の栞の眼の中の光を思い出させたせいかもしれない。思わず携帯を手に取った。捨てられてる他人の携帯に耳を近づけて、おそるおそるもしもしと言ってみた。
 相手は女性でそれわたしのスマホなんですけど、ダイバーさんとかですか?
 湿った声が耳に届く。
「あ、俺、ダイバーとかないですけど」ってどう自分の説明をしようかと戸惑っていると、慌てたように「なんだ、海の底じゃないんですねそれ拾ってくださった場所って」と、すこし残念がってるような声を響かせた。
「海? 海の底じゃない? だってわたしそれを江の島の海に捨てたんですよ。海の底に沈んでしまえばぜんぶゼロになるって気づいて」
 彼女の声は波の音にまぎれながらそれを縫うように聞こえてくる。
「砂の中であんまりなんども光ってたから気になって」
と、亮は言葉をつなげた。
 彼女が黙るからなにか怒っているのかなって思ったら、うわぁほんとに聞こえますね、潮騒ってうれしそうに言った。
「携帯を通してこんな波の音聞いたのははじめて」
 そう言ったきりふたりは黙った。こういう時間のことを栞はよく「会話の凪だね」って言っていたことを思い出す。
 波の音に耳を傾けていると、あなたの声ってって彼女が呟いたあとその後に続く声が聞き取れなくて、亮はあいまいな言葉でごまかした。つかのまの会話の凪が続いた後、彼女がやっぱり携帯取りにいってもいいですか? って訊ねてきたとからそれにこたえようとしていたら、すかさず彼女はわたし申し遅れました、つじしおりといいます。っていって今度はこっちの返事を待っていた。
 えっ? って亮は聞き返してしまった。波の音をくぐって再び名前が聞こえてきた。あの日、火葬場で栞の欠片を撒いた夜の海を見ながら、栞がじぶんをからかっている時の眼の中の光の粒をくっきりと思い出す。

 海岸からの帰り道。すばな商店街を歩いた。てもちぶさただったので何気なく、ポケットの中を探る。

 なかった。ないない。
 はじめからなにもそこになかったかのようになかった。
 栞からもらった海辺のボタンがどこにもなかった。ふしぎなさっきまでの彼
 女、つじさんの声が3回忌を迎えた栞のいたづらのように思えてきて。ぼんやりと二日酔いの朝みたいな頭でふらふらと夢遊病者のように歩いていた。

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