バタークッキーのちいさなかけらもはさまっていたし、ときおりページの角が、うっすらと透き通って見える。たぶんこれはオリーブオイルが染みこんだ跡だった。童話のなかの猫のように、猫田はある日を境にいろいろなものに、名前をつけた。
空には、「夢の街」とつけたり。風には「ずっと迷ってる」ってつけてみたり、1本の樹には「どこにもいけない」とか野良猫には「真昼の決闘」とかってネーミングしてはすぐに忘れた。
猫田はただの遊びだからそんなことどうでもいいんだと、名付けたことも忘れようとした。猫田のかわりにあたしがすぐに書き留めた。
あたしは猫田の足跡をどこかにとどめておきたい気持ちに駆られていた。
あれから猫田はぬすみをしていない。ただ、ここからどこかに出てゆきたそうな風情であたしをじっと見ていることがあった。ちがうなにかを追いかけたいのかもしれなかった。それともひとりになりたかったのか。
猫ドアから猫田が出て行ったのは、冬の終わりだった。
降り積もった雪の上に、猫の足跡がついていた。一度こっちを振り返ってくれたのか、その足跡がちがう角度でぼろぼろの我が家の方向を指していた。
その足跡が重なりながら、ふたたび前をむいて歩いて行った跡がちゃんとあった。あたしは猫田、いっちゃったんだと思った。ちがうマウスを追いかけに行ったのかもしれないし。死期を悟ったのかもしれない。
猫田がいなくなってからあたしも、そのちいさな猫ドアから出入りするようにした。難しかったけれど、それはあたらしい世界の始まりのような気がした。
身の丈。そんな言葉が浮かんできて、猫ドアにあたしも猫田みたく「みのたけ」って名前をつけた。
たったひとつだけ、知った。
ドアを身を屈めてくぐると、あたしはあなたじゃないのだなってことだけがありありと輪郭をもたげてくるのがわかる。
どんなにすきであって、惹かれていても、あたしはあなたじゃないしあなたも誰かじゃなないことを教えてくれるドアだった。
あたしはセーターをめくってみる。
ハツカネズミだった証のみずたまが、今日もくっきりとしていた。
猫田とはまたいつかどこかで、ふいに逢えるような気がしていた。