写真。あぁあれ。映ちゃんごっついぞっこんやな。
声とかだけ聴いてみたい、んですけど。
酸っぱいっていうのは邂逅する匂いなんですよ。すこし紗を掛けたみたいな声が聞こえてくる。映はフローリングの上に膝を抱えた頑なな卵みたいな形で座ってる。表情もなにも見えないから、ちいさな溜め息に似た声のかけらも聞
き逃さないようにして耳をこらして傾ける。
写真の人の声はどこかなつかしい感じがした。
黄泉のくにから、チチが戻ってきたみたいな声だった。
チチが暗室にいるとき。その作業のときは今日みたいな感じで膝を抱えたまま暗室にむかって声を放った。酸っぱいってなに?
耳を澄ますと息を深く吸い込んだ、チチの声が聞こえる。
だからな、酸っぱいんやって現像液っちゅうのは。あ、映ちゃんは舐めたらあきまへんで、舐めたら死にますさかいな。
扉の向こうのチチを想像する。
現像液の中に、写真になるまえの印画紙をひたひたに浸しているころに違いない。作業の時、息を殺して印画紙の中にたいせつな像をむすぶ時を見守る緊張感が暗室のこっちまで届いてくる。
部屋全体が溶液の中にしずんでしまったような静謐さに包まれる。
現像液の中で生まれてくる、過去の時間に刻まれた色や形や見えない呼吸がうっすらと輪郭をもちはじめると、チチは必ず言った。
酸っぱいって、ふたたび会えるっていう意味の匂いでな、と。
あの日はこう言った。
現像液っちゅうんは、なつかしい匂いがするんやって。
同じ声のトーンではなくて、時折ちいさくかき消されそうになりながら、なつかしいって言葉は、映にではなく自分に伝えている感じの声が届いてきた。
それが映とチチの最後の会話だった。
映は時折思っていた。現像液をなめすぎたチチは、それが致死量にまで達し
てしまって死んでしまったのだと。死因は誰もおしえてくれなかったからそう
思うことにしていた。
あの人の声を聞いてから、もしかしたら会えるかもしれないって思っていたのに。現実はぼろぼろと音を立てて崩れていった。