黒いテーブルの上に置かれたグラス。みずのしずくがグラスの外側にふたしかな円のかたちでくっついている。
すきとおるむこうがわの景色の色だけが、にじんで。
「スロウ・グラス」と題された1枚の写真があしらわれた1冊を本棚から引きぬいた。
引っ越しをなんども繰り返したのに、これだけは、荷物の中に残り続けて、いた。
手に取ってみると、記憶の中の「スロウ・グラス」とは違って、そのしずくのつぶつぶは、表紙いっぱいにひろがっていた。
記憶ってへいきでほんとうのことのように嘘をついて、こっちのあたまとこころをかき乱しては、すっと消えてゆく。
あらためて写真を見ていると、この写真のことがすきだったと感じていた気分が、ゆっくりよみがえってくる。
アケガタのものだったのかどっちだったか、ユウガタはわからなくなっていた。
明方昇と夕方翔。
のぼるとかけるが出会った。アケガタとユウガタが会社説明会の会場で同時にそこにいた。こんな運命ってあるんだろうかって思って、ふたりは知り合ってすぐにいっしょに住みだした。就職はせずにバイトで食いつなぐ方を選んだ。
それが名前の奇遇のせいなのか、なんなのかふたりにとってはなんら不自然なこととは思えなくて。偶然だと思っているのにどこか必然だと思っている節があった。
そして、なぜか売れない漫才師になった。
どうもぉ、アケガタ・ユウガタで~す。えっ? 聞こえませんでした? だからぼくたちアケガタ・ユウガタです!!
じぶんでじぶんたちを拍手で鼓舞して、ちいさな田舎町のスーパー銭湯とかで営業なんかをしてみたけれど。ほんとうにおそろしく売れなくて。売れるってなんだろうって、ふたり悩んでみたこともあった。けど、そんな途方に暮れそうなことからはさっさとずらかって、ただただバイトに明け暮れながら、ふたりで暮らした。
でも、どこかでいつかという思いが捨てきれなかったのか。ほんとうに売れたくないのかってアケガタが言い出して。トレーニングをふたりだけで始めた。
それを本の中の写真のタイトルから拝借してスロウ・グラスと名付けた。
白い紙に思いついた言葉を書き付けて、それをみえないようにしながら、また次の人にてわたしてゆく。その紙を広げるまでは、そこになにが書かれているかわからないっていう、あの遊びのことが綴られていた。
この遊びを始めた昔の大人の人たちが居て。その白い紙に書かれていたのは
<ル・カターヴル エクスキ ア・ヴュル・ヴォン・ヌヴォ>。