小説

『はたから見たらごんぎつね』渋澤怜(『ごんぎつね』)

 それから、兵十は、魚を見ると、ほんの少しおかしな気持ちになるのでした。
 村にやって来たいわし売が、かごから両手でつかみ出したいわしの、ぴかぴか光る腹が目に入った時も、おかしな気持ちがしました。いわし屋が弥助の家に入っていった短い間のことです。兵十の両手が勝手に動いて、かごに両手を突っ込んで、いわしをつかみ出していました。後からいわし屋に気付かれて、ぶん殴られた兵十でしたが、どうも、自分が盗みをしたとも思えません。そういうわけで、また、あの、ごんぎつねがおれの家に現れて、なぜかおれの家にいわしを放り込んだのだ、まったく、あのいたずらぎつねめ、と、おっ母の遺影に向かってぶつぶつと話しかけました。
 おっ母が死んでしまい、もう兵十は一人ぼっちでした。
 兵十は、そろそろ嫁さんでももらいたいもんだ、あの小うるさいおっ母が姑だとしたら誰も嫁に来んだろうが、もうおっ母はいないし、だれか嫁に来てくれてもいいものだ、と考えていましたが、おっ母が死んでしばらく経っても、一向にそんな気配はありませんでした。
 というのも、兵十の様子が少しおかしい、と、村の人の間では噂になっていたのです。
 あんなに孝行息子だった男が、おっ母をなくしてたった一人になってしまったのだから、少しおかしくなるのも仕方ない、と、村の人は考えていましたが、しかし、近ごろでは、「誰かが知らんが、うちに、栗やまつたけなんかを、おれの知らんうちに、おいていくんだ。一体だれなんだろう」なんていう話を、百姓仲間の加助にしているのです。加助は「きっと神様が、ひとりぼっちになったお前をあわれんで、いろいろ恵んでくださるのだ」なんてとりなしておきましたが、兵十はどうやら、「おれに惚れている女が、恥ずかしがって、おれに気付かれぬように、贈り物をしてくるのだ」と考えたい様子でした。もちろん、あやしい噂の広まっている兵十にそんなことをする女は、加助の知る限りいません。
 ある日、兵十の家から銃声がしました。
 村の人たちが驚いて集まったところ、火縄銃をばたりととり落とし、筒口から細く出ている青い煙を見つめたままほうけている兵十の姿がありました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
いや、まさか、狐が、うなぎを逃した償いに、栗を持ってくる、なんてことがあろうか。まさか、そんなことがあるだろうか。
 何かの思い違いではなかろうか。
 その時、兵十の頭から霧が晴れたようにすっきりと、何かが消え去りました。
「おれは、きつねに憑かれていたんだ」

1 2 3 4 5 6 7