「・・・そうでしたか」
「暗い場所の方が歩きやすいんです。人がいませんからね。夜中の山道なら、好きに歩き放題だ。都会や明るいとこにはない自由があります」
「ここは、よく歩かれるんですか?」
男は、慣れた感じでとてもスムーズに歩いている。自分はなぜ、今まで彼に遭遇しなかったのだろうかと、私は不思議に思った。
「いえ、今日はたまたま、気が向いて上がって来たんです。僕の家はもっと低い場所にあるんです。ほら、後ろの方に下っていく道があったでしょう?」
「ああ、ええ」
「たまには、違う道を歩いてみようと思って」
思いもよらぬ答えに、私は驚いた。
「しかし、とてもそんな風には・・・」
「暗くて人がいなくて静かな場所なら、大体すんなり歩けるんですよ。明るい道ではとても無理ですがね。何より音がうるさくて疲れてしまいます。見えない分耳がよくなってるんでしょう。闇と静寂が僕の世界です」
「なるほど」
「あなたには畑違いでは?」
男がそう言ったとき、ちょうどこの街道に一軒しかない店の前を通った。そこに立つ電灯に、男の白い顔が照らされた。彼は、目を閉じていた。一瞬の無表情は、その向こうにある、たくさんの槍が重なったような黒い木々を残して、また闇へ吸い込まれていった。
「畑が違うことをするのが、今の私の仕事のようなものです」
私は言った。
「それは何の為の仕事でしょう」男は独り言のように言う。「我々の世界は対ですが、正反対のところにあります。僕ら必ずしも、同じ場所で同じことができる訳ではありません。僕は照らされているとき、突然怖くなることがあります。そうすると何も見えなくなってしまいます。あなたに眼界があるように、僕にも僕なりの眼界があります。それが、全て崩れ去ってしまうときがあります。そういう事実だって、きっと生きていく上では必要なのでしょう。けれど、ずっとそこにはいられない」
しばらくの間、男の杖の音だけが響いていた。私は、逆転の世界を想像しながら、男の言葉をなぞった。この闇夜の中で彼の発する言葉は、光。そう、彼が隣で歩き始めてから、なんとなく少し、足元が明るいような感覚がする。暗いから、この男の言葉は澄んでいる。重力を何倍にも感じさせるような山々は軽くなり、森は牙を隠し、月が目を開けた。
「きっと、自分の鈍感さを知る為に、私はここへ来たのでしょう」