「ほかにないか」
「もっと聞かせろ」
などとせがまれているうちに、東の空が白んできた。
「いかん。朝が来る」
と、木々のいずれかがいった。
「ううむ……だが、この人間を置いて帰るのは惜しい。捕虜にせぬか」
最初に殺せと声をあげた歌好きの木が提案した。これは、ことのほか芳一郎を気に入ったらしかった。
「そういうわけにもいくまい。だいいち、昼のあいだ、我らは動かれぬ。そのうちに逃げられてしまう」
と隊長が低い声を出した。
「では、こうしましょう」
声をあげたのは、ほかならぬ芳一郎であった。一同の目が、彼に集中した。
「自分は、今夜もこの切り株を目印にしてここへやって参ります。そうして、またみなさまに歌をお聞かせしましょう」
「本当に来るのか。嘘ではないな」
歌好きの木が訊いた。
「嘘ではありません。嘘でない証拠に、契りの歌を残しましょう」
そういうと、芳一郎は即興で和歌を詠んだ。
「木も人も 歌の前では ともがらよ 早く早くと 次急かす声」
その歌が終わるか終わらぬかといううちに、隊長が号令をかけた。
「人間の歌人に、敬礼!」
木々の一同が、すべての枝を上に高く伸ばした。それが木々の敬礼であるらしかった。芳一郎も両手を天に突きだし、同じような姿勢を作った。
隊長は満足そうにうなずくと、号令を次いだ。
「回れ右! 全体、進め!」
そうして木々は芳一郎から離れ、やがて動かぬ森となった……。
その朝、芳一郎は巡回のソ連兵によって発見された。切り株の上に横たわった彼の体は指先まで余すことなくすっかり冷たくなっていた。芳一郎の死体は、ほかの死体がそうされるように、衣服を脱がされた上で捕虜仲間に引き渡された。仲間は、作業の合間に疲れた体で凍った土を掘り、例の切り株の根元に芳一郎の体を埋めた。
以降、その切り株のあたりに芳一郎の霊が出ると、捕虜のあいだで噂になった。噂によれば、夜になるといきなり森が現れ、木々に囲まれたなかで、芳一郎が和歌を詠んでいるという。
さも、楽しげに。