そのとき、運転手のマキが、グワリと吠えた。マキは振り返り、鬼そのものの形相で、キクコをにらみ、捕まえようと手を伸ばしてきた。
「キクコさん!」
マサルがもう一度強くひっぱり、キクコはどうにか外に飛び出すことができた。飛び出す瞬間に、マキの爪がひっかかり少しだけ肩に痛みが走った。シカダがなにか、キィキィと叫んでいたが、菊子の耳には届かなかった。
一瞬のうちに川の流れに飲み込まれ、キクコはごぼごぼと水を飲み込んでしまった。苦しい……。もう、ダメだ……。薄れていく意識の中で、キクコはもうろうとカバンにつけていたお気に入りのヌイグルミのことをぼんやりと思い出していた。
目を開けると、見慣れない天井がぼんやりとかすんで見えた。どうやら、助かったらしい。キクコはぼんやりとした意識の中で、そう思った。
「先生、患者様、目を開けました!」
体全体がきしみ、ぴくりとも動かせないけれど、どうにか生きては、いるようだった。看護師さんがキクコの顔をのぞき込み、目の動きやらなにやらをチェックしているようだった。
……とりあえず、戻ってこられたんだ。
キクコは安心して、また深い眠りについた。
キクコの住むマンションで火災が起きたことは、ずいぶん経ってから教えられた。どうやら、下の階に住んでいた女と、その不倫相手の男が無理心中を計ったあげく、その部屋から出火したらしいということだった。親友のエリが、お見舞いだよと持ってきてくれた、たくさんの雑誌のなかから、そのふたりの写真を見た時、キクコは青ざめた。二十番街へ一緒に行く、マイクロバスの後ろの席に座っていたふたりだったからだ。他の部屋の人たちは早い段階で逃げ出したそうだけれど、キクコは前日に飲んだお酒のせいで、眠りが深く、救出が遅れてしまったのだという。あと少し発見が遅かったら、死んでいただろう、と病院の先生に教えられた。あのふたりの死後の世界への旅に、道連れにされそうだったのかと考えるたびに、キクコはぞっと背筋が寒くなる。いくら、酔っぱらって「死にたい」と言っていたとはいえ、さすがにその旅路には便乗したくない。肩に、少しだけ火傷を負ったけれど、このぐらいのことで済んで良かったのだと思わずにはいられなかった。
キクコの枕元には、サルのヌイグルミのキーホルダが、小さくちょこんと座っている。救出されるときに、そのヌイグルミをなぜかぎゅっと握りしめていたらしく、キクコとともに助け出されたのだと言う。すこし煤にまみれて黒ずんではいるけれど、モコモコとした茶色い毛に、クリクリとした丸く、つぶらな目。ちょんちょん、と人さし指で小さなヌイグルミの頭をなでる。
「ありがとね。マサルくん」キクコはそういって、笑いかけたのだった。