小説

『拝啓 佐伯先輩殿』戸上右亮

 あの頃、尊敬と畏怖の念を持って、何かにつけては「ヤベーヤベー」と佐伯先輩の噂をしたものだ。その先輩から、ある日突然呼び出される。そんな状況にビビらない僕らではなかった。何が起きるのかも大体の想像はついている。いつもヘラヘラとふざけてばかりの僕らに気合を入れるため殴るか、先輩への敬意が足りないと因縁をつけ殴るか、あるいは大した理由もなくただ殴るのか。どうポジティブに考えても、楽し気なひと時となる可能性は限りなくゼロに近い。僕らは全員、初めてキスをしたばかりの乙女のように上の空だった。もちろん、最悪な意味でだが。
 そして迎えた午後三時五十分。
 帰りの会が終わるや否や、僕らはすぐさま愛用の改造自転車にまたがり学校を飛び出した。一体なぜ、こんなにスピードが出しにくくなる改造をわざわざ施してしまったのだろう。通称「鬼ハン」と呼ばれるそれは、ハンドルを無理やり曲げて持ち手部分をほぼ垂直にまで持ち上げ、さらにブレーキを通常とは逆の側に移動させてるため、立ち漕ぎをしようとすると腕に異常な緊張を強いられる。しかし、サドルに座ったところでハンドルがかなり上部にあるため、BORN TO BE WILDなアメリカンスタイルでの運転を強いられることになるのである。バイクならアクセルをひねればいいが、自転車の場合は足の力がペダルにうまく伝わらないため、どう考えてもスピードを出すのに適した形状ではなかった。しかも九月も末だと言うのにその日に限ってやたらと暑く、出発して五分もしないうちに開襟シャツは汗で透けるほど濡れていた。
 しかし、僕らに「急ぐ」以外の選択肢はない。サイトウまでは通常三十分はかかる距離だが、先輩は待つのが大嫌いだからだ。待ち合わせに十五分遅れたことを理由に、後輩を近くの川に投げ込んだというエピソードすらある。つまり僕らのような下っ端が先輩を待たせるなど、絶対にあってはならないことなのだ。
 佐伯先輩が、僕らを待っている。
 その恐怖心だけを原動力に自己ベストタイムでサイトウに駆けつけると、そこには物理的な限界レベルまで足を広げ、地べたにしゃがみこむ先輩の姿があった。僕らは自転車を躊躇なく道端に投げ捨て、「すんません!」だの「遅くなりました!」だの「サッセンス!」だのと謝罪の言葉を思い思いに叫んで腰の後ろに手を回し、直立不動で整列する。
 足元には先輩の吐いた唾でねっとりとした泉のようなものが形成されており、その大きさが時間の長さを物語っていた。駄菓子屋の柱時計を盗み見ると、時刻は既に午後四時十二分。先輩が苛々しているのは火を見るより明らかである。先輩はコモドドラゴンのような目つきで僕らをゆっくりと見回し、鼻からゆっくりと煙草の煙を吐き出す。そして、意外なほど静かに言った。
「だるまかえ」
 スウィーヨー、スウィーヨー、スウィーヨー、プジィィィィィィィ。
 ツクツクボーシのサイケな鳴き声が、耳から脳内をひっかき回す。言葉の意味を理解できずに黙ったまま突っ立っていると、先輩は煙草の吸い殻を僕らの足元に思い切り叩きつけた。
「返事しろよお前ら。ダルマだよ、ダルマ!」

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