「け、警察? なんで? 髪切ったから? それが罪? うちが貧乏だったから仕方ないでしょ。そうでもしないとお金になるものなんてなかったの。ねぇ貧乏は罪なの?」
おそろしかった。治夢の目はもうほとんど他人への一瞥のまなざしだった。治夢は妻の寺子を寺子と認識していなかった。
「寺子から聞いたんですか? うちが貧しいって。ふたりとも甲斐性が無いって。
寺子はいつもそう感じていましたからね。で、寺子はどこですか?」
寺子は叫び続けた。わたしがあなたの寺子なのだと。
「あなたのはずはない。こう言っちゃなんですけど、寺子はそんなあなたみたいに、あなたみたいにしみったれていませんでしたから」
その後、警察の人がやってきて事情を聴かれた。
「あの、捕まえてほしいわけじゃないんです。この家からその人がいなくなってくれればいいだけですから。それと妻の捜索願をお願いします」
警察のお兄さんは親切だった。寺子のことをストーカーの初犯ということで、収まりをつけたかったらしい。寺子はおさまらなかった。
でも、警察のトイレの鏡でじぶんの顔を見た時、寺子は思った。
これって、わたしじゃない。寺子はどこ? 貧しさはいつのまにかひとりの身体に棲みついてなにかを巣食ってしまったようだった。
寺子はそれから20年を治夢との別れに折り合いがつかずに暮らした。
またクリスマスがやってくる。この季節に外に出ると蕁麻疹を発病しそうになる。あれから結婚は1度もしなかった。治夢がいつかあれは僕の勘違いだったって謝ってくるんじゃないかと、かつてふたりで暮らしていたボロ家の住所へと、手紙を送り続けたこともあった。
何通目かの頃、誤配の赤いハンコの押された治夢あてのハガキが戻ってきてから、ほんとうに治夢とは終わってしまったことを知った。
あの時の治夢へのクリスマスの贈り物の時計を、寺子は今でも持っている。
あれからしばらく、寺子はそれをじぶんの左の手首につけていた。男物なので大きすぎてゆるゆるしていたけれど。
それをしていると愛された男に死なれてしまってその形見としての時計を、身に着けているようで、過去が塗り替えられる安堵を得られた。
でも、そんな茶番がいつしかむなしくなって、元の箱にしまっておいた。